Spirit 'Taurus'

Deep Purple 'Child In Time' が It's A Beautiful Day 'Bombay Calling' からの引用なことと、当時の「楽曲が権利を超えてみんなのものだった」ロック・シーンのありようの例のいろいろ、をご教示頂いて、思ったこと。

 

ある楽想を曲の形に紡いでゆくということは、その楽想の展開の可能性のうちのひとつを選んで辿るということで、引用、'Child In Time' のようなやり方でのそれは、そこで捨象されたいろんな可能性をサルベージする、もうひとつの世界線を示す、ということなのだ、ということを思いました。

 

パクられるのは名誉、と思います。「パクる・パクられる」という言葉を使うあいだはまだ、曲を所有物と見做してることになってしまいますが。

学術論文は引用されてナンボ、と聞いたことがあるので、音楽シーンもそういう在り方で豊かになってゆくとよいと、理想論として思います。

 

去年3月「'Stairway To Heaven' 盗作訴訟で Zep 側勝訴」が報じられた際、パクり元とされた曲、Spirit の 'Taurus' を初めて知りました。

作品としての完成度というのと別に、聴く者のイマジネイションを刺戟してくる音楽だ、と思いました。

件のコード進行から開ける視野の一例を、それに続く箇所の楽想が、きっちり形にして示してるし、聴く者がイマジネイションを拓くためのヒントとしての力もある。

これが当時の感想です。

 

このケースでは訴訟になってるわけですから、「権利を超えてみんなのもの」とは別の例ですが。

もともと私は 'Stairway To Heaven' という曲がピンと来ていません。外枠としての楽節ありきで形を整えその中に閉じている。その帰結として、徒に長い。展開が、本当に音楽的であるよりは、何か文学的な発想から来てるのでしょうか?

'Taurus' のほうが音楽の大事な瞬間、純粋にコンポジション的な出来事を提示し得てると思います。和声が内側から自らを編んでゆく。和声のアイデアが、それ自体として目覚ましいと同時に、象徴的に和声の可能性に向かって開かれている。わたし的にはこちらの方が重要な音楽です。

 

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