分ける 統べる

S氏が、どなたかに自作曲数曲のカセットテープを渡した時、最後のトラックに、これ

を入れた。

「びっくりしました!!!」

という反応を期待したら、

「あら、ドビュッシーなんて懐かしい」

薄い反応、というより、戸惑っているようだった。何故いまさらこれを聴かされるのか?と。

 

このエピソードを、どっちに解釈すべきか?

たしかに打込みならではの作り方は一切してないし、聴感的に打込み然としてはいない。音楽の作り方が全く生オケのそれであって、それを打込みに置き換えてる。S氏の打込みが、「優れてる」かどうかはともかく、「生っぽい」。既存のクラシック CD から録音したもの、と誤認されるのも道理である。

というエピソードなのか。

 

もう一つの解釈は。

もしかしたら、人によって、聴こえてる音の出来事が、ガラッと違うのではないか?

音楽は一般的に思いの外漠然と聴かれてるものなのではないか? であるために、打込みと生オケとを識別出来ないのではないか?

これはもちろん「優劣」の話ではない。オーケストレイションを分解して聴き分ける方向なのか、ミックスしたトータルの響きを聴く方向なのか。

 

 

私がなぜギターの「コードストローク」を好まないのか説明しようとしてたら、どういうわけか上記のエピソードを思い出した。

コードストロークを好まない。私は、SATBの4声がそれぞれメロとして横に動いて、結果、和声を作る、という発想なので。その発想に「縛られて」いるために、それで処理できないコードストロークに「困惑する」というべきだ。

構成音(第1音、第3音、第5音)が含まれてさえいれば、それがどの声部に来るのかによらず「C」であり「Dm」である、という発想は、コード進行を「外枠」化し、内側からの発想を阻害する。内側から発想するとは、声部を重ねることが、既存のコードネームで呼べない響きの開拓である、ということ。

和音を作るのには3音ないし4音あれば足りるのに、ギターの弦6本全部使う、というのも、馴染めない。「貧乏性」は和声を考える者に必須の資質である。

端的に、クラシックの「和声」とポピュラー音楽の「コード進行」の違い、と言ってしまえることなのかもだけど。

 

 

ちなみに、貼ったドビュッシーは、たぶん、耳コピではないと思う*1

*1:というか、笑っちゃうくらい譜面の指示に忠実。