サブドミナントを中心とする和声

ふと、「リディアンで書く」ことと「イオニアンのサブドミナントで書く」こととは違うのだ、と思う。

「トニックを中心とする長調の和声において第4音をシャープさせる*1」のと「サブドミナントを中心に和声を考える」のとの違い。

後者の例をいくつか。

6'48" から最後までの箇所は、D → E/D の繰り返しで、ペダルはずっと d なわけだけど、fis で始まるギター・ソロの階名を、d をキーと見做して

ミ―――――♯ファソラ―レ―――

とは読まず(感じず)、a をキーと見做して

ラ―――――シドレ―ソ―――

と読む。

(ただしこの箇所は最後 A ではなく F♯ に終止する。)

 

この曲の開始からしばらく、イントロからAメロにかけては「F のリディアン」感に溢れるが、Bメロに入るとコード進行が F → G → Am → G で、これはハ長調の Ⅳ→Ⅴ→ⅵ→Ⅴ と聴こえる。そしてサビでは C が「たっぷりとして安定したトニック」として鳴り、曲最後も C で終わる。

つまりイントロ~Aメロは「サブドミナントで延々引っ張ってる」のだ。

固辞しおるね店屋もんの重。小獅子おるね天安門の zoo。

 

この曲のコードで中心になるのは A♭M7 だが、メロの階名は e♭ をキーとして

ッッラ―ラ―ド―|シ―ソ―ド―シ―

ッッミファミレッド|ッミミファミラレド

と読まれる。

かつ、この曲にはトニックのコード E♭ がついに出て来ない。

 

変ホ長調の和声に拠りながら E♭ のコードが出て来ない時、私なぞは「いつか出て来る筈のものがついに出て来ない」と感じてしまうのだけど、これは従来の和声に囚われることで、いくないことだと思う。

サブドミナントを中心とする和声」というものがあるのだ。

 

ロックには、ミクソリディアンによる曲が非常に多い。イオニアンの第7音をフラットさせる形。

ところが、例えば Mike Oldfield の、例えばこの曲の場合。

冒頭 7'26" 間。この魅力的な「持続力」の理由は「ドミナント感」にあると思う。ドミナントを軸とするカデンツが曲を推進させる感じ。

「ミクソリディアンに拠ってる」のではなく「イオニアンのドミナントを軸として和声を考えてる」。

 

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*1:ここは便宜的にこう言ってるけど、そもそも第4音をシャープさせたら従来のカデンツは成り立たないので、リディアンによることはほぼほぼすなわちドローンを書くことだ。