「子供達に音楽を教えるにはどうしたらよいか」という質問に
— Applepopz_ロックンロール忘備録 (@Applepopz) 2020年10月4日
ポールマッカートニーが「僕ならこうする」とピアノで作曲に必要な最小限のコードだけ教えるのさすがなんだよな
ギターもそうだけど決まった曲しか弾けなかったり機械的に覚えさせられてるだけだといずれ退屈になって音楽をやめてしまう pic.twitter.com/QP6RPydgpS
子どもの頃こうやってピアノで三和音を7種類弾いてみて、「シ・レ・ファ」だけ響きが違う*1、ということに興味を引かれたのを思い出した。思えばあれが旋法と和声の関係を考えるきっかけのひとつになった。
マッカートニーはここで、まさにその「シ・レ・ファ」だけ省いてるけど、たまたまかな? セオリーありきで、そのために不都合なものを排除してる、わけではないよね?
これで子どもたちが「夢中ってなる」のか、私には判らないけど、子どもたちが自発的に音楽を発見してゆく、という点は正しい。
(マッカートニーの硬さ・狭さが、子どもの本当にユニークな発見に気付いてあげられるのか、結局コンヴェンションに導きそこに閉じ込めないか、ちょっと心配。)
指の形を作って平行にスライドさせることが、ピアノでそれをやるのとギターでそれをやるのとで意味が違う、というのは些細なことのようでいて、じつはこれは音組織発想そのものの違いだ。
ピアノでは、指の形の平行スライドが、音程の平行スライドと一致しない 。ピアノの発想は五線システムの発想でもあって、音程の平行移動を五線で記譜すると、臨時記号が煩雑になる。
ピアノは、音の内発的自律的な動きに沿うよりは、和声や対位法を使って音を「操作」することに向いてる。ここでいう和声とは、たんなる「コード進行」のことではなく、例えば S, A, T, B の4声が横に動いて作るカデンツとか、そういうの。
ピアノには「C」という中心がある。↑の動画でマッカートニーもやってるとおり。
ギターには調性の中心が無い。全ての音が浮遊してる。いちばん低い弦が「E」だから、これが土台になりそうだし、じっさいロックにはキーが E の曲が多いけど、コードを押さえる指はその形のままであらゆる調の間を無碍に行き来する。
こういう、ピアノとギターそれぞれの指し示す音楽のあり方の違いに気付くとか、そういうことが、あるいは教育にも大事かも。
マッカートニーに反感を抱くことが多い私の、しかしビートルズ入門は「ヘイ・ジュード」だった。聴き直してみて、子ども心にどこが新鮮だったのか、いくつか思い出した。
①ロックについての先入観(うるさいとか、メロや和声が軽んじられてるとか)からかけ離れてて、作曲・アレンジがクラシック耳にも美しかった。
②いっぽうで、(「丁寧に歌う」を基調にしつつその上で)即興的にメロを崩したりシャウト気味になったり、にロックの自由を感じた。
ブリッジで、折角サブドミナント上で転調的コード進行を始めるのに、早々にトニックに戻って来て終止するところは、もっと踏み出せよ!と思う。これは当時も今も一貫してる。
「ヘイ・ジュード」を経たからこそ、「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」の歌メロのぶっきらぼうな造形に、これぞロック!ってなれた。
「へルター・スケルター」の振り切れ。「ユア・マザー・シュッド・ノウ」の的確。
「ペイパーバック・ライター」と「エリナー・リグビー」は今も「私のイギリス」の一部。
武満は1度でも「レノン」と発語しただろうか?
『ギターのための12の歌』でビートルズ・ナンバーが4曲選ばれてる。
ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア、ミッシェル、ヘイ・ジュード、イエスタデイ。
つまり全部マッカートニー曲。
編曲し甲斐のある、創意を刺戟してくる構造をもつ曲を選んだ結果なのだろうけど、武満のレノン評価ってどんなだったんだろう?
対談の中で、従来の和声を使ってクリエイティヴな仕事をしている例としてマッカートニーとディランを挙げてたと思うし、ELP にも触れてたと思うけど、エッセイや対談でレノンに言及するのを読んだ記憶がない。
*1:(長三和音でも短三和音でもなく)減三和音の「落ち着かない響き」