地の・人工の光と、天の・自然の光が拮抗する時間帯が好きです。
ヒトの身体は、可視光の乱反射と、ある種の電磁波の透過で像を結ぶけど、ヒトの身体は電磁波を「屈折」させることは出来ない。つまりヒトは虹になれない。
竜さんが #モノクロ演劇 と対置?併置?して #虹演劇 とお書きになってて、ご意図を測りかねていろいろ思いを巡らせました。
そういえば水晶体にも色収差がある筈、といったん思いましたが、視野の周縁は解像度が低いから問題にならないし、そもそも色が判るのは視野の中心だけなのでした。
線香花火を、
動画(DVD)で見ると華やか
スティル(コマ送り)で見ると真っ暗
1つの閃光が2コマに跨ることは無い。
瞬間の光が夥しい数集まって華やかに見えるけど、時間経過の中でそう見えるのであって、時間を止めると、同時に見えてる光はせいぜい3個。
(1コマに収まってる時間が何分の1秒か知らない。)
みたいなことを私が書く時は、作曲のヒントを求めてる時。
粒子の大きさが可視光の波長のオーダーだと、単純に光の乱反射で色が決まるというのとは違う色が見える。
スマホでもっぱら(動画ではなく)写真を撮ってた時は、「編集=卑怯」と思ってた。
写真は造形を capture するもので、構図とか画面の水平とか傾きとか、光の具合とかは、撮影の段階で決まる。
こだわりどころなぶん、編集段階でのこれらの修正を自らに許してしまって、現場での「センス」が鈍るのを警戒した。
でも、スマホ写真において、あとからの編集だって、そこに世界を発見し capture する行為に違いない。そこも「現場」に違いない。
03月05日撮影。当時の考えでは、この光の具合を発見し捉えたこと、あとから編集=加工してないこと、に意味があった。
今回、コントラストを強調してみました。
動画を撮るようになって、編集のハードルが下がった。きっかけは、私の欲しいある効果のためにどうしても「手ぶれ補正」が必要になったこと。
これは構図にも影響する。手ぶれ補正はどうしてもトリミングを伴う。それを見越して撮影時にズームインを甘めにして広めの画角で撮っておく必要がある。撮影時に全部決める、ということが不可能になる。
関連記事: