Ⅰ.
まず、例えば、規則的で単純なビートを、数人で、各々の BPM で、奏者間没交渉に、打つ(①)。
これはつまり「他人のやってることを聴かない」。
次に、これをもし「1パート2人ずつ」にしたら(②)。これは①と質的に同じアンサンブルだろうか?
「選択的に特定の奏者のやってることは聴き、それ以外は聴かない」。アンサンブルに参加してないのではなく、曲全体としてのアンサンブルではないレヴェルの部分的なアンサンブルに参加してる。
①を、1人多重録音で作る時は、2番目のトラックを演奏・録音する時に、1番目のトラックを聴かない。
でも複数人でのライヴ演奏では、お互いに完全に没交渉、というのが不可能で、どうしても聴こえてしまう他人の出す音にどうしても影響されてしまう。
音の出し手は、音の聴き手でもある、ということを、排除しようとするのか、そこに意味を見出そうとするのか。
②のように、部分に対してアンサンブル意識を働かせることによって、全体に対するアンサンブル意識を消すことが出来るのではないか?
Ⅱ.
複数のレヴェルの「アンサンブルへの意識」が高次の構造を成す、ということでいうと。
お手本は自然界で、そこでは各発音者にもアンサンブル意識が無いし、それをオーガナイズする立場の者もいない。そこにアンサンブルが生じてることを、聴き手であるヒトが見出す。
ヒトによる作曲・演奏においては。
お祭りとかパレードとかの場をまず考える。箇所箇所でアンサンブルが「意識的に」行われる。総体として巨大なひとつの音楽を成してるといっても、その全体を聴く者はいない。
これに似た状況を「作曲」する場合は、全体を知る者がいる。作曲者。指揮者。聴き手。
Ⅲ.
ふつうにクラシックのオケにおいてだって、各奏者がフルスコアを把握してるとは限らない。
音楽はどこにあるのか?
音を出す者がいて、音をオーガナイズする者がいて、聴く者がいて、音楽はそのどこで生まれてるのか。
Ⅳ.
さっき暫定的に「自然界ではアンサンブル意識がどこにも無い」といったけど、ウシガエルが2匹で鳴いてるのを聴くと、没交渉じゃないんじゃないか、と思える。間を置くタイミング、片方が鳴き已む/鳴き出すと、もう片方が鳴き已む/鳴き出すように聴こえる。厳密に縦の線を合わせるんじゃないけど、「鳴き交わし」てる。
私いろいろごっちゃになってたけど、ヒキガエルとウシガエルは別らしい。外来種のオオヒキガエルと在来種のヒキガエルも別らしい。あと、別記事によると「ガマガエル」はヒキガエルの別名であるらしい。