下書き放出

3つの下書きは相互に無関係です。

 

私の中二時代の世界観の、しかし根本は今も変わってない。ペンディングされ馴化されてるだけで。

家族というものが自然のものとして前提とされてるんだな、とは思う。家族の許に取り返せば解決*1、というところが疑われることは無いんだな。

もちろん、統一協会については、食い物にされてたまるか、と思う。

でもいっぱんに、私が今この世のこの家族に属してるのは、たまたまだし「仮」だという感覚、本来の居場所、還るべき魂の故郷は他にある、という感覚は普遍的な感覚だと思ってたんだけど違うんだな。

宗教的感覚といっていいです。洗脳を解くことが、この宗教的感覚自体を否定することであってはならない。

端的に、洗脳を解くことは、日常の常識の世間のもうひとつの洗脳に迎え入れることなので。

「世の中には他にいろいろ有意義なことがあるのに何故よりによって統一協会を選ぶんだ?」とか言い出すわけです。選択肢のひとつではない、ほんとうに大事なこと絶対に替えが利かないものを求めて懊悩のさ中にある者への説得の言葉としてそれが有効と思うのか?

 

というようなこと。

 

「才能」という言い方をするなら、影響を「与える」ことよりも「受ける」ことのほうが才能なのでは?と思うことはある。

オリジナルはやりっ放しでいい。研究者は他人のやり口を辿り理解する必要がある。

野口五郎が、自分の曲について判らないことがあると野村義男に訊く、というエピソードを思い出す。

 

そういえばこのまえ中華丼(スーパーのお惣菜)レンチンしてウズラの玉子の白身を噛み割った時水蒸気と黄身が勢いよく噴き出して口の中火傷したんだった。こういうことが起こりうるんだ。

 

教訓:白身は圧力を持ちこたえる。

材質と、構造。

丸いので、内壁のどこに対しても同じに圧力が掛かる。「ウィークポイント」が無い。

 

あ、材質もミクロの構造か。

《そもそも構造は、データに例えていうと「MIDI」レヴェルの「コンポジション」だけではなく「オーディオ」レヴェルの「音色」にもあり、これも意識的に「作る」対象であり意識的に「聴く」対象なのだ、「質感」という粗雑な捉え方で流してはいけないのだ》

《作曲は、音符単位でのオペレーションに還元されるものではない。和声とか対位法とかと同様に、「音色」にも構造があり、それは耳を澄ます対象であり、作曲の対象だ》

*1:脱会後の自殺が多いなどの実態からして「取り返せば解決」は不用意な言い方ですが、ここではその話はしていません。