意識

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(2018年11月18日、「中国の納西族や彝族の口琴」についての御ツイートを引用 RT して)
複数弁によってメロを作ると、倍音列はメロとしてより音色として意識される。
各弁を基音とする倍音列のメロを行き来して「転調」ないし「コード進行」させることも可能だろうか?

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(2021年08月17日、「中国 イ族口琴」についての御ツイートを引用 RT して)
多弁によって旋律を奏でられるということは、倍音列は、それへの対旋律にもなり得そうだけどそれよりは、もっぱら音色の要素として意識される、のかな?

私、複数弁の口琴を紹介する動画ツイートが回ってくるたび、同じようなこと言ってる。
しかもこれ、「倍音列」でも「音色」でもなく「意識」で検索した結果の、一致。


小栗虫太郎黒死館殺人事件」は「自動人形テレーズ」が重要な役回りらしい(読んでない)。
鬼頭莫宏ヴァンデミエールの翼」(読んでない)。
「本来、翼は自由の象徴のはずだが、ヴァンデミエールのそれは人々の憐憫を買うためにつけられている」
「最終話にて第1話の少年と邂逅し、自らの羽根をもぎ取って奔走しだす」
ウィキペディアヴァンデミエールの翼」)
完全に人形目線、人形にとっての、人形であるが故の苦悩、のお話なんだな。
私は人形というとまず「人にとっての人形」を考えてしまう。
愛玩の対象なのか。
コミュニケイションの相手なのか。そうなら人形にも人格がなければならないけど、こちらのコントロールを超えて自律しだすと不都合なのか。
誰かの似姿、誰かの代替として造られたけど、代替ではない、人形自前の自我意識が宿るケース、とか。

イマジナリー・フレンドというのは、自律的な自我意識をもつのだろうか? それとも主にとって都合のよい創作だろうか?
本来は現実世界に友だちが欲しいけど叶わない、その代償としてもつものなのか、そうではなくてもっと積極的な存在なのか。
主人公にイマジナリー・フレンドがいたんだけど、現実世界に本気で愛する対象が出来たために、その存在を忘れる、それ以来、身の回りに異変が起こって、愛する対象の身にも原因不明の危険が及んで、みたいなお話は書かれてるだろうか?


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