メモ(詩の翻訳)

私の口が突然「バーント・ノートン」と口走ったので、私の頭が「何それ?!」とググると、T. S. エリオットの詩のタイトルだった。

Tomoko Shinkai Eliot なんか1行も読んだこと無いのに。

いや1行だけ読んだ。『荒地』を、異なる翻訳で2冊買って読み始めたら、1行目から、同じ原文から訳したと思えないほど違う。翻訳では何も解らない、原文で読めるようになって、語学としての英語力と文学的な読解力とを身に付けて、そこがやっとスタートラインなのだ、と途方に暮れて、投げ出したのだった。

 

いっぱんに詩は、散文と違って、翻訳によって音(オン)とリズムが変われば別物だし(意味内容がどんなに忠実に訳されてても)、殊に現代詩は、ある単語が、どんな文脈でどんな意味を指し示すためにそこに置かれてるか読み解く、という作業から始めねばならない。翻訳書はその読み解きの一例、と心して読まねばならない。

あるいは文脈から自由に単語としてそこにある場合もある。その場合でも、訳語を何かひとつに決めねばならないが、そのための根拠は無い。

詩の翻訳は、本編単体として完成完結することは望めない。必ず注解の体系を伴う。ある語句に対してひとつの訳語が選ばれ本編に使われ、注解として、これが選ばれた理由、そこに至るまでに為された検討、他の可能性、が示されねばならない。

 

詩を翻訳することは、新たに日本語詩を創作することだ。殊に本編単体として成立し流布してる、例えば

私の耳は貝の殻 海の響を懐かしむ*1

は、なおさらそういうものとしてある。

*1:ネットには「海の響きを懐かしむ」「海のひびきをなつかしむ」もあって、堀口大學訳としてどれが正しいのか咄嗟に判りません。すみません。