下書き放出(廣瀬量平「海はなかった」の非情な詩情)

 

廣瀬量平作曲、岩間芳樹作詩、混声合唱組曲『海の詩』第1曲「海はなかった」。

この曲の演奏は数多いけど、まだ理想的なものに出会ってない。というのは私の中にその理想があるということ。

 

同じ組曲の第2曲「内なる怪魚シーラカンス」は、曲自体が面白いので、譜面どおりに演奏すれば必定面白くなる。

譜面どおりに、といっても、この曲の譜面は、特殊奏法とか、センツァ・テンポでポルタメントするロング・トーンとか、それが「ここでこの高さになる」というポイント以外「音符」じゃなく「曲線」で書かれてるとか、断片として示されたイヴェントの繰返しを、奏者間で音高や縦の線を揃えるのではなくやるとか、という、曲の具体的な姿を決めるのに各奏者と指揮者の積極的な解釈と実践を要求するものなのだけど。

 

「海はなかった」のほうは、うっかりやると、センチメンタルな情と通俗性の音楽になってしまう。

理想的なものに出会えない、というのは、私の理想がパーソナルなものだから。私はこの曲に、荒廃しつつの詩情、遥かにひらけた透明の中の、硬質で非情な詩情を見てる。

あと理想というからには、アンサンブルやパート間のバランスの彫琢が前提で、そこから各パートの疎かにすべからざる要所が、随時浮かび上がる。

それらを全部満たす、精緻で透明でしかも詩情を湛える演奏に、いまだ出会えない。

 

そもそもなぜ私の中に理想があるのか?どこでその理想を形作ったのか?というと、高校の合唱部で。お手本を聴く前にまず譜面で、そして自分たちの演奏で、この曲を知った。

むろん、その場でその「理想」が実現されてたわけではない。そこで行われてたのが、リハであり、途上のものであると認識するからこそ、その先に理想を思い描いてた。

イントロのピアノは私が早い時期に出会った「現代音楽」の響きだったし、当時の私はまだ音楽の映像喚起力を無邪気に信じてた。イントロが私に思い描かせたのは、海岸のひらけた空間に、コンクリートと鉄骨の構造物、打ち捨てられ人の気配のない廃墟。

これに導かれて歌い出す叙情は、透明なものでなければならなかった。空間の広がりの中での、ディテイルへの注視。

その「荒廃しつつの詩情」の海岸線は、Chrome のこれとか、

Conny Plank がプロデュースしたこれとかに繋がってた。

私の心象風景の一角、荒廃の硬質の空間、その基調になったのが「海はなかった」だった気がする。

 

「現代詩文庫」の佇まいとも私の中で地続きだったり。吉岡実とか。