下書き放出

こういう下書きをしてた。以下。

 

ブロガーはなぜ下書き保存をするのか?

何が起きたら、下書きが下書きを脱して投稿されるのか?

 

私は時々「下書き放出」「メモ」と題する投稿をする。「真っ当な一記事には足りないのですが」というエクスキューズである。

積極的な表現方法としての下書き、というのもあり得るだろうか? 部分であるがゆえに却って象徴的に全体を言い当てる的な。「アフォリズム」の言い換えとしての「下書き」。寸鉄の下書き。

 

下書き保存するのは、「『完成形』が予想されててまだそこに達してない」からではないだろう。とっとと完成させればよいのだし。

保存のまま時間が経つのは、「形になってはいるんだけど、これをどう位置付ければよいか見えてない」からで、将来、何か別の方向からのアプローチによってこの文案の意味が判明する、のを待機してるからだ。

 

こういう下書きをしてた。以下。

 

ショウガの長所は「たっぷり入れられる」こと。

S&B のチューブの「しょうが」を、何にでも入れる。好きなので、40g を4回で使い切る。

 

同じチューブのシリーズの中に「ゆずこしょう」がある。

初めて試した時、「しょうが」と同じ感覚で分量を決めて、痛い目に遭った。

 

1回の分量が少ない=コスパが良い、という観点で、直近は専ら「テーブルコショー」を使う。

 

以上。

今気付いた。これ「フォーマットがあるせいで一緒くたに見てしまう」という話なので、音楽 CD の話、例えば「『European Rock Collection』シリーズというフォーマットがあるせいで、統一感が齎されることと、ぎゃくに各作品の個性が際立つこと」に繋げることで、見えて来るものがあるんじゃないか。

 

以上。

今日久々に、S&B のチューブの「しょうが」を買った。「ショウガは私の好きなもの」というのが前提だったし、これをなぞって以前と同じに楽しめると目論んだのだったが、「私はショウガが好きな人」は、自覚ほどはアプリオリなものではなかった。

もうひとつの下書きとつながった。以下。

 

それまで理解できなかったものが「理解できる状態になる」ことの内実に、「馴染む」こと以外の要素ってあるんだろうか?

ある曲を知的に理解することと、その曲に価値があると感じることとは、まったく別のことだ。

価値を裏付けるものは何か? 結局は、鑑賞を重ねるうちに「馴染む」ことを以て「理解する」というのではないか。

 

というようなことを以前書いた。

これは、新たに理解する曲についてのことだったけど、同時に、いま現に好きな曲、既に価値を認めてる曲だって、ある時点で後天的に「馴染んだ」ものだ、ということ。どこまで遡っても「アプリオリ」が存在しない。

 

以上。

 

以上は、全体が下書きです。投稿する気になったのは「これは『下書き放出です』」というオチを思い付いたからです。