録音への違和感

CD や LP は録音メディア、記録の手段であって、そこには、音の形を取るものでさえあれば、何を録音しても構わない。

 

「録音」し「鑑賞」すること。

そこに私はずっと違和感を感じて来たのだと、ふと思い出す。

 

きっかけは、(記憶がこの上なく曖昧なんだけど、)初期のロックマガジンの記事で、MC5 だったか Vanilla Fudge だったか Stooges だったかに、げっぷの音から始まるアルバムがある、ということが書かれてたこと。

 

げっぷの音を「吹き込み」して、LP の形で売る、これを買って「鑑賞」する人がいる。

そこに私は当然違和感を抱いたわけだけど、翻ってじゃあ、何の音ならそうするに相応しいのか? 音楽なら OK なのだとしたらそのオーソリティを保証するものはいったい何なのか?

歌を歌って吹き込んでこれを鑑賞に供することも、全く同様に、真っ当ではないどこか後ろ暗い行いであって、違和感を以て接する対象なはず、と気付いたのだった。

 

歌うという行為は、まちがいなく正義です。

でも、歌ってこれを「吹き込む」行為には「わざとらしさ」もっというと「滑稽さ」が付き纏う。

理由としてひとつ思い当たるのは、行為の一回性と、これを繰り返し再生できる作品という形に留めることとの、齟齬。

「意識化」の問題。録音のためには口とマイクの距離を、適切に、一定に、保たねばならなくて、これは冷めた意識によって達成されることで、これと、歌うという行為への集中とか、時によって没我とか忘我とか陶酔とか、とは両立しない、からじゃないか。

 

だから録音に限らないですね。ステージ上で、ヴォーカリストがどんなに大きな身振りを伴うパフォーマンスをしても、声を発する時は右手に持ったマイクを口に近付けねばならない。ポゼッション=憑依を装ったパフォーマンスであっても、意識でもってマイクで自分の声を拾わねばならない。

 

「マイクで拾う」というプロセスを含むパフォーマンスは、必ず、わざとらしい。

 

いや、考えながら書いてたら話がこんなところに来てしまったけど、もともとは、冒頭書いたとおり「録音メディアは本来、音の形を取る全てのものを分け隔てしない筈」ということが言いたかったのです。