T.Sasaki「突きとばされた話」

標題楽(ないし描写音楽)は、不可能だし、価値がない。というか私は標題楽が解らない。

「音楽がその自律を貫きつつも、視覚イメージや言葉と呼応することが、果たして可能なのか、価値があるのか。そこに関数は存在するのか」についてとことん懐疑的だと、当ブログを始めた時から表明してる。

 

じゃあこれはどうなのよ案件。

タイトルの「突きとばされた話」というのは、ご案内の通り、稲垣足穂一千一秒物語』の中の一篇のタイトルだ。

曲のタイトルは作曲者本人が付けたものだ。都合の悪いことに、この曲の、鉱物質で透明な質感(すでに物言いが描写的な私)とか、運動性、突発的ヴァイオレンスとかに、足穂の世界と如何にも呼応すると思わせるところが、あるような、無くないような。

べつに、足穂の「突きとばされた話」から発想が始まって、この文学作品を音楽に翻訳してやろう、ストーリーを追おう、雰囲気を音楽に移そう、と意図したわけではないんだろう。作曲の手続きは純粋に音楽的だったが、結果が足穂を連想させた。

いや作曲者の真意は判らないが、じゃあどんなタイトルならOKだったのか? どっちみちタイトル付けには、恒例のこととして、困ったに違いない。根拠なきタイトル付けが為されることになる。「突きとばされた話」も、根拠なきタイトル案たちの中のひとつである。これだけを回避する、という理由も、ぎゃくに無い。

作曲は1992年となってる。作曲者のかなり初期の筈。