「#アニメ作画されてほしいクラシック音楽」というハッシュタグに私が戸惑ったのは、「まず選曲がある」という発想の順序のせいだった。考えようがないのである。何を以て「この曲は作画されるに相応しい」と判断するのか、想像がつかないのである。
例えばこういうことだろうか? ①オペラとかバレエ曲とか交響詩とか、物語性のある作品の、その物語を映像化する。②標題楽や、そう銘打ってないけど「映像喚起力」があると目される曲に、それに相応しい映像を付ける。③曲のもつ造形や運動性に呼応する映像を付す。
「曲を先に選ぶ」とき、そこに働く動機としてあり得るのは、以上の事かな?と思う。私は音楽作品は自律のもので、映像と呼応する可能性は無い、という立場なので、いずれも斥ける。というか解らない。
音楽内容を映像内容に翻訳することは出来ない。「似つかわしい」取り合わせというものも無い。
あり得るかも知れないのは、「ある曲とある映像とが併置されることによって、ある《効果》を生む」ことだ。この場合、曲と映像が「似つかわしい」かどうかは問題ではない。
でもこの場合には、まず「この曲を!」と推す、という発想の順序にはなり得ない。
ハッシュタグ発案者の意図はどこにあったんだろう?
ジャケ絵は、音楽に沿うことを意図すべきじゃないし出来ない。組み合わせることで生じる《効果》はあるかも知れないし、コントロール出来るかも知れない。
ジャケは、どんなに美しくても、アリモノの絵画作品をそのまま使ったものは、それでいいのか?ってなる。一旦は。でも《効果》に主眼があるなら、そこに意識的であるなら、オリジナルかアリモノか、は重要なポイントではなくなるのかな?
Pearls Before Swine "One Nation Underground" のヒエロニムス・ボッシュとか。
Humble Pie "Humble Pie" のオーブリー・ビアズリーとか(裏ジャケはジョージ・フレデリック・ウォッツ)。
Novalis "Sommerabend" のマックスフィールド・パリッシュとか(そういえば、3月10日に出る森園勝敏のベスト盤2タイトルも、パリッシュ作品をそのまま使ってる)。
もしボッシュの絵を使うのが「ボッシュに共感を寄せてるから」とか「私の音楽世界をボッシュが代弁してくれるから」とかの動機からだとしたら、「Joy Division のファンだから "Unknown Pleasures" T を着る」のと同じだ。
私はロック T を着ない。着ることが何かの表明になると思わない。もし私が England ファンでないなら、"Garden Shed" T を気兼ねなく着られるのかも知れない。