「(伝われ)」

《常日頃感じていることなのですが、翻訳機に掛けて読まれることを前提にして文章を書くと、曖昧さの無い語彙と修辞で書ける、という場合があると思います。

「明確に書く」とは、まず「明確に考える」ということです。読み手に対してという以前に、まず書く自分自身に対して明確にする。

普段、自国語の中だけで考え、書いていると、勢いや流れで、解った「気がする」だけのままで書いてしまう、書けてしまう、ということがあります。「翻訳される」という前提は、曖昧さを排除してくれると思います。》

 

↑は、以前ある機会に書いたものだけど、この文章自体が翻訳機で読んで下さる方に宛てたものなので、曖昧さを作らないことと、構文を捻らないことを普段以上に心懸けてる。

生得の修辞に任せて書いた文章を、翻訳されやすいように書き直すと、何かが取り零される、と感じることがある。でも私はこれを思い煩わない。そこで排除されるものは、もともと「何か言ったつもりになっていたけど意味内容が無かったもの」だ。

 

 

最近、ツイート文の末尾に「(伝われ)」を添える、というのを何例か目にした。ハッシュタグ「#伝われ」もある。どうやら、ニッチでマニアックな領域での、状況説明や萌えポイント披瀝にこれを添える、という使い方のようだった。

伝わる相手と伝わらない相手がいて、伝わらない相手が大多数で、だから伝わるとものすごく嬉しい、読んだ側も、共感できるものに出会えて嬉しい、という例。

伝わらない相手に説明を尽くすことも出来る。でもそのためには前提の共有から始めねばならず、「野暮」になる。

 

もし、伝える努力を怠ったままの「(伝われ)」なら、これのいけないところは、身勝手ということより、まず自分が何を伝えようとしてるのか自分自身が解ってない、自分自身に対して説明がついていない、というところだ。

本来「(伝われ)」は、言語化出来る「状況」を言語化し尽して提示し、その先の、それをどう「評価」するかについては、説明を積極的に諦める、という表示だ。

「(伝われ)」は、言葉で伝えることの限界点がどこにあるのかを見定めてる(否応なく見定めさせられる環境にいる)という点で、コミュニケイションへの積極的な関わり方、態度だ。

 

 

全く別の話。

あの方が最近、あるステージにお入りになってるな、というのは以前から感じてた。

お掛けする言葉がそこに馴染むかどうかは私の側からは判らない。あの方の TL に流れるのだということに配慮して、RT すべきツイート、私自身のツイート、を選んではいた。でも結局失敗した。

言葉をお掛けして、それがあの方の状況に馴染むかを、あの方にご判断頂いて、切るなら切る、とおまかせするしかなかったのだから、これでいい。

ふと、あの方から私はどういう人物に見えてたのかな?と思う。

私はあの方に甘えていた。私のアオくて生硬なリプに、実感の、襞々のある、生きた言葉で応えて下さるのが嬉しかった。私は本当にガキで、それを「しょうがないなあ」と呆れつつも見捨てずにいて下さってる。私の側からはこういうイメージだった。

私を一人前の大人として遇して下さるからこそ、私のリプが、面倒なものだった、のかなあ。

これはいけないことなんだけど、私はあの方に母親の代わりを求めていたと思う。確かに依存してた。去年ツイッターに戻って、まだ TL を見るのが怖かった時、あの方のツイだけ読んでた。今も、朝インしてまず見るのはあの方のホームだったし、あの方がいらっしゃるということをメンタルの支えにしてしまってた。

私は、二人で協力して場を作ってる、「濃やかなやりとり」を積み重ねているつもりだったけど、独りよがりに巻き込んでいただけみたい。