The Nerve Institute のアルバム "Architects Of Flesh-Density" から。
私が「男子一楽坊」と呼ぶ The Nerve Institute は、作曲家でマルチ奏者の Michael S. Judge のソロ・プロジェクトで、ひとりで作曲して、ギター類、ベース、ドラム、パーカス、各種キーボード、テープ・ループ、その他、とにかく全部ひとりで演奏してる。
AltrOck から2枚、
Architects Of Flesh-Density(2011年)
Fictions(2015年)
をリリース。
私は最初 "Fictions" で知ったのだけど、実はこれは2009年に Sinthome 名義、"Ficciones" のタイトルで作ったもののリマスター。
ギターの、各種奏法とエフェクターの駆使による音色が多彩なうえに、各種キーボードとテープ・ループがレイヤーを成すソノリティが大きな魅力なのに、いつも8トラックで作ってると知って、驚く。
全部ひとりでといったけどひとつだけ例外があって、"Fictions" の中の2曲に Jacob Holm-Lupo がギターまたはキーボードで参加してる。
ふたりは2007年以来の知り合いで、2011年には逆に Judge が White Willow の "Terminal Twilight" 所収 'Hawks Circle The Mountain' にギターで参加した。
2015年、"Fictions" リリース当時の、Jez Rowden による Michael S. Judge(タイトルでは Mike Judge)インタヴュー記事があった。
すごく長い。その中から、私が気になった箇所を。
「飽くまでギタリストでありドラマーである」
但し、「私のキーボード・テクニックは完全に間違ってる」といいつつ、「私の書くコードはピアノで弾きやすい形じゃない」みたいな言い回しなので、たんに鍵盤奏者として劣るというのではなく「発想が作曲の必然に沿ってるがために、ピアニスティックな発想からは外れてる」ということなんだと思う。
「"Fictions" は、他の何からよりも、20世紀の哲学から情報を得てる。就中フーコー、デリダ、ドゥルーズ/ガタリ」
歌詞の内容のための情報、というだけではないんだと思う。もっと作曲含めてのスタンスのことなのでは?
「私は常に受信機を開いた状態に保つことを心掛けてる。いちばん好きなバンドのひとつ This Heat のモットー『全ての可能なプロセス。全てのチャンネルをオープンに。24時間の警戒』そのとおり 」
ザッパこそ師。
「12歳の時初めてフランク・ザッパを聴いた。こんな曲が書けるものなのか…その後の私の音楽生活の青写真となった」
「17,18歳の時、ザッパの数百曲をコピーした。人生で音楽について最も多くを学んだ2年間だった」
8トラックでの作業の話の中で、ベースを録る順序の件が面白い。基本構造の要素、ドラム、メイン・ギターまたはキーボードをまず録る。
「ある構造が出来るまでベース・パートを録るのを待つのが本当に好き。そうすれば起こってることへの反応として弾くことが出来る。ただコードのルートを弾くのではなく」
「"Fictions" を書き録音していた2008年終わりから2009年半ば、たくさんのラテンとアフリカの音楽を聴いていた。就中サルサ、アフロビート、'60s と '70s のアフリカン・ファンクを。それらは "Fictions" に反映してる。
そして 'Knives Of Summer' の "banks of a troubled Tiber" のパート(しんかい註:'Knives Of Summer' という曲は、中ほどでリズムパターンの違う2分間が挿入される、その箇所のこと。)はリズム的には Eliseo Parra のパクリ。彼はスペイン民族音楽の人類学者というべき存在。
ここ数年儀式の音楽をたくさん聴いた。完全に宗教的な用途のもの、ヴードゥーやサンテリアの儀式、ギリシャとアラブの結婚式と葬式の歌、韓国のシャーマン Kim Suk Chul の演奏は南アジアのフリー・ジャズみたいに聴こえる。
いろいろな音楽文化が、我々のよりも非二元論的であるのに惹かれる。宗教、音楽、文学が根源において一如であって、だからヒトが「為した」こととしての「文化」の全領域を愛することになる*1。
日常と神聖、想像と物質の間に分離は無い」
"Fictions" と "Architects..." は同時期の作曲・録音だけど、作曲プロセスについては違いがある。
「"Fictions" は、私の興味を引きつけた断片たちから始めて、発展させて、それぞれ同士を関連づけて、纏めた。"Architects..." は、そういうところもあるけど、より初めから終わりまでの構成がある」
「"Architects..." は、より意図的にテーマに沿ってて、基本の細胞のヴァリエイションに基づく構築。対して "Fictions" は、たくさんの小さな8小節のセクションから」
カヴァー・アートが「two releases」のあいだで大きく違うことについての質問は、文脈からして、インタヴュアー的には Sinthome 名義の "Ficciones" が The Nerve Institutes の "Fictions" として出し直された時にジャケが劇的に変わったことについて訊きたかったんだと思うけど、Judge の回答は "Architects..." と "Fictions" の違いについてになってる。
'Into The Leoprosarium' に使われた言葉についての質問をきっかけに、「狂気」について語られる。
「アルフレート・アドラーのいうように、狂気の人はいない、狂気の経験をした人だけがいる、そして我々が通常聴かない何事かを記述するために能う限り最良の言語で我々に語っている。私はカフカの基本の主題、彼があらゆる作品の中で何度も繰り返すそれを、心底信じる:フィルターを通さないリアリティのヴィジョンは、一瞬で、誰をも狂気に駆り立てる。
それが『狂気』だ。我々が感知するように訓練されてるよりも広いスペクトルのリアリティに(しばしば不本意に)開かれている。統合失調者はしばしば天気を予想出来る。『正常な』ヒトにおいては、後脳が提供するあらゆる種類の刺激を、前脳が重要度において取捨選択し、編集する。何故なら、あまりに多くのことが起こっていて、我々はその全てに注意を払えるようには出来ていないので。統合失調者はその編集のメカニズムがずっとアクティヴでないので、環境からずっと多くを感知している。これは明らかにアーティストにも当てはまる。エズラ・パウンドいうところの "The antennae of the race"*2。」
インタヴューでは、各曲ごとに、歌詞がどんなインスピレイションによっているか、詳細に解説しています。ここには訳しませんが。
Judge には、都合8枚のアルバムが(このインタヴューの時点で、そしてその後リリースがあったか私は把握してないけど)あるようで、その中で彼自身が誇りに思ってるのは "Architects..." だそう。その理由:
because it’s rare to have a record on which you’re both pushing out and doing a good job of getting down your ideas – usually it’s one or the other. Architects… may be the only one on which I’ve managed both. Fictions is good, but I don’t think I was pushing myself enough; A Woman… was pushing myself hard, for the time, but I didn’t do a great job transferring my ideas into music.
(A Woman...="A Woman Has Given Birth To A Calf's Head" は、Sinthome 名義で2008年に録音したアルバム。より協和で歌モノ寄り、とのこと。)
この、pushing out と getting down one's ideas の含意、その両立とか、どっちに特化するかとか、は作曲のキモに関わりそう。
*1:追記 2021年09月29日
ここはちょっと意訳で、というか訳し方がいまいち判らなくて、原文は、
I like the non-dualism of musical cultures other than ours, the originary unity of religion, music, literature, really the whole realm of “culture” being just what people did.
です。
*2:パウンドが芸術家を指してこう呼んだ、ということのようですが、私には意味が解りません。民族に差し迫ることを、他の者たちに先んじて、予期する力を具える者、というほどの意味でしょうか。