一方の立場として、インスピレイションによって齎された、具体的音像・楽想なり、印象なりがまずあって、これを「譲れないもの」としてこれに対してどこまでも純潔で、これを具現化することが作曲である、とする「表現」至上の立場。
使える作曲の技・方法は、場合の要請に応じて見境なく取り入れるし、ぎゃくに、方法が自律を始めたら、排斥する。方法の選択の基準が、あくまで「譲れないもの」の具現のために必要ないし有効かどうかの一点である。
他方の立場として、「方法の純一」至上の立場。まず方法が設定されて、これが自律的に音楽を編んでゆく。そうして得られる音楽だけが「純粋」で、もしそれ以外に「ここはこうした方がかっこいい」場合が生じても、これに日和見ることは、数学でいえば「証明の放棄」である。
自分のイメージに拘泥する間は見えてこない可能性に向かって開かれる。イメージなんて、方法に後付けされるものだ。
フェルメール「デルフトの眺望」 の画面のオプティカルな「光の粒立ち」がどんなに美しくても、これが砂を混ぜた絵具の「マチエール」に頼ったもので、「色の要素の並べ方」によって「描く」ことを貫徹していない以上、「方法」至上の立場からは「不純」と判定される。
マチエールがいけないのではなくて、複数の方法を1つの作品に混在させることが、不純。
方法の純一を徹底してるのは、スーラ。
好きなのはスーラよりもフェルメールだけど。
私はもともと「作曲」を聴く人で、モーグも、作曲の必然でこの箇所に使われてる、と納得できる使い方に出会うと、嬉しかった。
ここでいう作曲というのは、インスピレイションで齎される音の像を具現化する「表現」の意味合いが強い。まあ小6の料簡です。
作曲の必然から外れた「ソロ演奏」は虚しく、退屈だった。
「メカとしての」モーグへの関心も薄かった。
ELP「ラッキー・マン」が嫌いだったのは、フォーク調だからではなく、繰り返しの多いコード進行+歌メロという曲の構造が面白くなかったから。これが ELP のやるべきことと思えなかったから。
コーダのモーグ・ソロについても、モーグ・ソロのためのモーグ・ソロで、身も蓋も無い、と思った。1970年当時これがどの程度画期的だったのかは、Brain Salad Surgery を知ってしまってる耳にはピンと来なかった。
キース・エマソンはモーグという楽器を楽器ならしめた功労者の一人なんだろう。楽器そのものの可能性をとことん開発することは大事だけど、その意義は「作曲」に還元されて初めて成就するものだ。
「モーグだけで全部やる」ことは、今思えば方法としてものすごく正しいのだけど、先述のとおり、私には、モーグは「使うべきところで使う」もの、という固定観念があった。
現に音楽作品として素晴らしいのだから文句のつけようがない筈なんだけど、「作曲」「表現」の必然というベクトルと、モーグでやるという方法のベクトルとは、一致しない、ということが引っ掛かった。
なんしろ私は、プログレにのめり込むようには、冨田を熱心に聴かなかった。
ところで。
パトリック・モラーツのプレイはイエスの中で浮いてる、という評を読んで、承服できなかった。
ウェイクマンのいるイエスこそがイエス、という立場だとそうなるのかな?
クラシックの素養といっても、ウェイクマンの場合「ロマン派」までが根っこのようなのが私個人的に馴染めなくて、こっちこそ「浮いてる」と感じる。装飾音のセンスが黴臭い。
'Yours Is No Disgrace' の主モティーフに装飾音要るか?
エマソンの20世紀音楽趣味のほうがまだ、馴染める。
モラーツはソロ指向が強い、とも評されてた。ぎゃくに私はまさに、彼の、モーグを含むキーボードが "Relayer" の「オーケストレイション」のために如何に有意であるか、に感嘆するのだが。
ピアノは作曲家必修だけど、ピアニストがヴァイオリニストよりも作曲家的、なのではない。
ピアノが和声や対位法による作曲の道具として便利なだけで、「作曲家的」と「ピアニスト的」とは、全く別の次元だ。
私は Kerry Minnear や Dave Stewart の作曲が好きだし、彼らの、多声部で組み立てる作曲スタイルが、キーボーディストなればこそなのは確かだが、私は彼らをキーボーディストとして好きなのではない。