Neu! 'Super 16' に「出会う」まで

ジェネシスや PFM に馴染んだナイーヴな審美眼が、次に差し掛かったクラウトロックを最初からすんなり受け容れたわけではありませんでした。

ときに造形がグズグズのサイケや、無機質なエレクトロビートの反復は、どう聴けばいいものか、戸惑いました。

そんななか、大いにピンと来て、それとの出会いを契機にクラウトロックが親密なものになっていった、という曲が、3曲あります。

Can 'Soup'、"Ege Bamyasi" 所収。

Faust 'Why Don't You Eat Carrots'、"Faust" 所収。

'Soup' はとくに、後半と、前曲 'Vitamin C' からの繋がりの箇所が「私を構成」しました。

 

問題は残りの1曲です。

Neu! 'Super 16'、"Neu! 2" 所収。

問題というのは、アルバムでではなくこの曲を単独で知ってしまったことであり、私の「親密」が誤解に基づくものだったことです。

この曲は聴感的に、数年後の、オルタナないしインダストリアル、Cabaret Voltaire とか Throbbing Gristle とか Dome とかと並べたくなります。

私はこの曲を、作者が予めこういう心象風景を抱いて、これを表現したもの、と思って、打たれたのでした。

 

のちにアルバムで聴くと、事情が違いました。

アルバム後半には、先にリリースされていた Neu! のシングル曲、'Super' と 'Neuschnee' を、ふつうにプレイヤーで再生しつつ回転数をいじったもの、が並んでいます。

'Super' については、'Super 16'、'Super 78'、'Super'。

即物的な手続きの結果としての出音を面白がる遊びであって、心象ありきの表現とはプロセスが真逆でした。

 

ぶっちゃけ、私はがっかりしたのです。

でもその後、真性の表現は、こういう手続きによってこそ齎される、と思い知る事例を、いくつも知ることになります。

シュルレアリスムがヒトの深層心理を引き出すために偶然を大いにあてにする、的な。

Brian Eno にはときにシュールと形容出来そうな曲があるけど、Eno 自身はむしろシステムを構築するだけで、そこに音の素材を放り込んでみた結果がシュールだった、みたいな。

それに較べて表現主義的標題楽描写音楽的発想目論見が如何にいつも不毛に終わることか。

 

そういう経緯を経て、私はこの曲に、もう一度、今度こそ本当に「出会い」、惚れ直したのでした。