Yes "Tormato"

Yes "Tormato" は収録曲が創意に満ちた佳品ぞろいで好きなアルバム。

ただ、サウンドプロダクションに芸が無いというか、ストレートな各楽器の音がステレオ空間のどこかにただ定位されてるだけ、みたいな出音には戸惑った。デモっぽい。

その単調さを、ベースにコーラスを掛けて音色をいじることで補ってる風だけど、そのせいで本来のスクワイアの音色が犠牲になってる、と私などは感じてしまう。

長尺曲が無いことと併せて、それまでの大仰なイエスサウンドからの脱却を狙ってるとも取れるが、それに代わるバンドサウンドを打ち出せてるとも思えない。

Eddy Offord がいないせいだろうか? 彼の Yes における役割について私は何も知らないのだけど。

 

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風呂敷目視鑑定

 

佳品ぞろい、'Don't Kill The Whale' 以外。この曲、好きではないけど、私にとって、音楽と「メッセージ性」「政治性」との関係について考え始める契機になった。

疑問が湧いたのは、間奏のキーボードソロに差し掛かった時。このフレーズを弾く時、演奏者は何に留意すべきか?

メッセージ内容を音にすること? それは可能? どうやって?

Wakeman の脳裏では、クジラが跳躍してたの?

詞でメッセージを打ち出すことと、その詞を持つ曲の中で演奏することとの、齟齬。これがこの曲が「滑稽」であるいちばんの理由だと思った。

演奏する時には演奏そのものとしてのクォリティを追求すべし。これが小6の私の結論だった。

私の、音楽の自律・純粋を以て貴いとする立場を決定するのに、この曲が影響してる。

 

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室伏野武士古今亭

 

最近何故か Yes ネタが多いけど、Gentle Giant が好きです。

 

'I Lost My Head' こそ GG の奥義と思ってるけど、GG としてのライヴは、"Playing The Fool" 所収のやつしか知らない。

奥義といってもそれはこの曲の前半のことで、後半のロック部は、単調で、ノリだけで、好きじゃない。

"Playing The Fool" ではその重要な前半が、長さ的に短縮され、ヴォーカルパートが省略されてる。しかも 'Peel The Paint' からのメドレーという扱い。

Three Friends ではやってるんだ:

Minnear がいないと意味ないなあ。

昔、ユーロ・ロック・プレスで「GG補完計画」という不定期連載があった。Chihiro S. 氏と浅野淳氏の対談(という体裁を取った記事)。

この中で、両氏(のどちらか)が 'I Lost My Head' 前半を「イントロ」と仰ってる件があって、私は、逆だろ、後半が「コーダ」だろ、と盛大にツッコんだ。

その件があるのは Vol. 29 だが、例によって目当ての号だけ棚から消えてる。

 

追記(2018年06月04日)

Vol. 29 出て来ました。

ユーロ・ロック・プレス May 2006 Vol. 29   pp. 86~87

「GG補完計画発動中! ~其の肆(四)~『地の巻』」

DVD "GG at the GG Sight & Sound In Concert" ('06) について解説する回。

特典映像 "in'terview" PV についての件。

 

GGM:ゲイリーなんか、リコーダーとアコースティック・ギターを持ち替えるたびに、自分で瞬時にマイク・セッティングを直してるし。

A:"I Lost My Head" のイントロですね。中間部でのジョンの銅鑼の持ち替えも含め、メンバーの本気度が映像から伝わってきます。

GGM:このイントロの演奏風景が見られるというのは、凄い貴重じゃ。これら「in'terview」プロモのためだけでも、本作をゲットする価値はある。表題曲中間部では、ウィスパー・ガムランも視認できるし。ここまで来ると演奏しているのも同じじゃな。

A:ピアノ・ソロ前の歌がジョンだと判明したりと、新発見が随所にあります。

 

「GGM」=Dr.ぢゃいあんと幻覚マシーンすなわち Chihiro S. 氏、「A」=助手A-野くんすなわち浅野淳氏。

「演奏しているのも同じ」とは「口パクだけど」の含意。

お二方とも「イントロ」と仰ってた…もっとも、対談の体裁を取ってはいるものの、おそらく多分に創作で、どの箇所がどなたのご発言か、正確に文字起こししてるわけではないと思う。