バラケそしてドビュッシー

(2015年4月10日、記)

 

 

ジャックさんの御ブログにジャン・バラケの名前が出て来ていろいろ思い出した。

 

ジャックさんのブログ記事→「さくら」と聞いて思い浮かぶ曲は?【投稿で現金1万円が当たる!】|ふんだりけったり

 

私はバラケの作品を聴いたことがない。

ドビュッシー論で知ってる。それもそれ自体を読んでなく、全音海賊版ポケットスコア「牧神の午後への前奏曲」への平島正郎氏の解説に引用されてるのを読んだ。

引用というより、解説全体がバラケの論に沿って進められていた。

これが私がバラケについて知ってる全部だ。

 

「牧神」音組織の原理を「6度」の関係に帰着させていたと記憶する。

読んだ当時、この指摘がどのくらい重要か、ピンと来なかった。

 

今思うに、6度というのは、モードとモードとの関係を考える時、否応なく意識する音程なんだ。

 

ドビュッシーヴァーグナーから逃れねばならなかった。

ヴァーグナーから逃れるということは、ドミナント機能からヴァーグナーの半音階的転調までの和声音楽の歴史・遺産を超えてゆくということで、その一つの手がかりとして、モードからの発想は、使える。

和声音楽以前の教会旋法を根幹に据えて音組織を発想する。これは具体的にはサティの「サラバンド」からドビュッシーに齎されたものだ。

 

ドビュッシーが意識して、スローガンとして「6度で行くぞ!」とは思わなかっただろうが、息詰まるヴァーグナーの、和声音楽全体の重圧から軽やかに逃れるために、むしろどうしてもここに行き着かざるを得ない、と思わせる。じっさいに耳に響く自在さとして。

 

その海賊版「牧神」も咄嗟に手元に無いので、この稿の全部が、不確かな記憶頼りなのですが。