カラヤン

下書き保存の書きかけを、こちらの御記事

に刺激されてひとまず書き上げることが出来ました。ジャックさんありがとうございます。

「帝王ブランド」への固着は、高品質を維持しつつ量産する体制の固定化、でもあるのでしょう。そうすることで何が犠牲になるのかは、ジャック氏の御記事が十全に論じていらっしゃるのだと思います。

以下、私の貧しい知識に基づく私見です。

 

 

カラヤンベルリン・フィルを嫌いな人と ECM を嫌いな人って重なってるんじゃないか?って私のことだけど。

 

カラヤンは1989年に亡くなってる。生前どういう評価だったのか把握してない。

「帝王」と呼ばれる一方、カラヤンのことは貶しておく(そのうえで「でも R. シュトラウスはいい」と言う)のが通としての流儀、という風潮もあったように見える。

 

カラヤンはとにかく録音数がべらぼうに多い。ほんとに本人が全部録ったの?物理的にそれは可能なの?というくらい。

私はそのうちの数えるほどをしか聴いてない。私のカラヤン評価を決定づけたのは、ドビュッシーペレアスとメリザンド』だ。

まあとにかくものすごく立派な響き。

なんだけど、その立派さが、曲を正しく聴かせることのために全く役立ってない「そっちじゃない」感。

私は『ペレメリ』をまず第3幕第1場から聴くし、演奏の聴き較べもここでやる。その冒頭、ドビュッシーのオーケストレイションにとって重要な「クラリネット」と「ハープ」が十分に聴こえない、という一点を以て既に、カラヤンは排除される。弦鳴り過ぎ!!

ドビュッシーが音楽の象徴力で言い当てる世界は、深くて、密やか。それをシュトラウスをやる時と同じサウンドで聴こえなくする。

私がオケについて「サウンド」の語を使うのは、ポール・モーリアなどの「イージー・リスニング」に言及する時と、カラヤンベルリン・フィルに言及する時。

 

断っておくけど、私の違和感は「フランス音楽を(オーストリア人の指揮する)ドイツのオケがやること」ではない。私はハナからドビュッシーに「フランス的響き」を求めてない。

 

スウェーデンのトラッドのバンド、フリーフォート Frifot では、唯一 ECM 盤だけがつまらない。

「場」に根差した音楽であるトラッドと、ECM の、オーディオ的に完全だけど「抽象的」な空間との、ミスマッチ。

バンドの指向する完成度とは全く別種の完成度を求められて、ヴァイタリティを発揮できないでいると聴こえる。

異化のコンテクストに置いてみることはいいことだけど、その失敗例。

私は「Frifot を聴きたい」のだが、ECM 盤では「『ECM の録音』を聴かされる」。

「曲を聴きたい」のに「カラヤンサウンドを聴かされる」のと同じだ。

 

そいえばラトルについても私はバーミンガム市響に愛着があって、ベルリン・フィルでピンと来たことがない。

いつも言ってることだけど、クラシックについての私のスタンスは、作曲家至上、演奏家の役割は作曲家の意図を正しく形にすること、だ。

ベルリン・フィルを聴く」って「曲を聴く」より「アンサンブルを聴く」になっちゃうんだよなあ。