偶然2つのツイートが関連した。
あるいはいつも意識にある問題だから繋がった必然なのか。
こういう音楽をやりたい https://t.co/RJw6RgCR5s
— 新海智子 (@coccyx_T) October 28, 2018
「机上の空論」と聞くと続けて「雲霞のごとく候」と言ってしまう条件反射
— 新海智子 (@coccyx_T) November 1, 2018
要するにディジタルかアナログか、「要素に還元」か「トータル」か、の問いなんだけど。
まずスタティクな絵として、例えば天の川。茫洋とした光の連なりのバックグラウンドに、個々の星の点が乗ってる。でもその光芒も実は夥しい星の集まりで(星雲などガス状の星間物質も含むかもだけど)、個々に識別できる近くと、光芒に見える遠くとは、連続していて境目を特定できない。
こういう音楽をやりたいのだけど、バックグラウンドを「パッド」で塗りつぶし、その上に個々の音の粒立ちを乗せる、ということはしたくない。点の集まりで光芒のバックグラウンドを作りたい。作業として簡単かどうかを別にして、発想として。
「雲霞の如し」は「夥しさ」を表現する句だ。夥しさによって雲や霞みたいな連続性を得る。作曲でそれをやる。
次に、上に引用 RT した鳥の群れの動画みたいなダイナミズム。見た目連続的でも、それを点に還元するからこそ、動きを作れる。
コンピュータなしに手作業でやれる範囲はごくごく限定的だけど、ふだんの作曲でもこれを発想としては持っておきたい。
いっぽうの立場は。
作曲とは耳を澄ますこと、ヒトの聴覚に即すること、とすれば茫洋は茫洋として素直に聴けばいい、自らの耳の責任において聴き取るものが真実であって、責任を取れる範囲外について言及することは嘘をつくことである、という立場。
もういっぽうの立場は。
自然の表層をなぞることには意味が無くて、それを成り立たせている仕組みを解き明かすのが作曲、という立場。
それにつけても、ドビュッシーの『反好事家八分音符氏』第1章の葉巻の煙のくだりが、如何に問題意識を先取りし、音楽の本質に肉薄しているか。
《けむりが青い渦をまいてのぼってゆくのを、彼はものめずらしげにみつめ、そこに奇体な歪み……おそらくは奇抜なシステムを凝視しているかのごとくに見えた……》(平島正郎訳)