(2015年3月26日、記)
この2月、デイヴィッド・アレンの「余命6か月」情報を受けて考えたことを、やはり書いておく。
ある方と、この情報について話した時、私は、
「彼の望むとおりにゆくといいと思います」
という意味のことを言った。
「余命6か月」、「容体悪化」、そして訃報を、私はユミ・ハラさんのブログで拝見していた。
私の先の発言は、デイヴィッド自身の
「抵抗や否認の時期は終わってあるがままを受け入れる時が来た」
「これからみんなが自分のためにしてくれることとして大事なことは、
自分を行かせてくれる準備のプロセスを始めてくれること
これから訪れる変化、死を祝福してくれること」
という言葉と、オーランドの
「デヴィッドの(死から生への)変化の過程は、われわれみんなで『死』をタブー視する西洋文化を変える素晴らしい機会」
という言葉を受けてのものだった。
「彼の望むとおりにゆくといいと思います」
言って、直後、ハッとした。
---彼の言葉を受け、これに沿おうとするかに見える発言。
でもこれは、彼の「望み」を決めつけ、これから、自らの死と向き合うことで、自らの生と向き合う、これから真に生を始める彼を、ぎゃくに予め殺す発言じゃないか。
「彼の望むところ」とは何か。
彼の今いる地点は、生の途中だ。
彼の表明してることは「現時点の」彼の望むところであって、今後、生を続行する中で、どう変化するかも判らない。
人生半ばの私から見ると、彼の今いる地点から死までの時間を、人生の最終段階の、ごく短い、均質に進行する時期として、一括りに捉えしまうけれども、実はその間に何段階も折り込まれて、「望み」もダイナミックに変化するのかも知れない。
「望み」を、固定し、これを淡々と消化する時期、ではないのではないか?
実際のところは判らない。
ダイナミックかも知れないし、スタティクでシンプルかも知れない。
覚悟を決めて、揺るぎなく淡々と、というイメージを持ってしまうし、じじつそうなのかも知れない。
いずれにせよ。
大事なのは、ここからが本当の生だ、どんなすり替えも先送りもない、自分の生を、直接に、リアルに生きる生が、今始まったのだ、という見方をすること。
生きる実感もなく生きる私にはどうしても見えない境地をいま彼は見ている。
見始めている、というべきかも知れない。
今後いよいよ死が迫るにつれて、何かが深まって強まって来るのか、ぎゃくにますますシンプルになって来るのか、とにかく、パッシヴで、しかしそれ故に最もリアルな、「生」。
断じて、それまで続いてきた生を中断せねばならない悲しい人、ではない。
先の私の発言は、彼を、もうあと死ぬだけの人、と片付けることにならないか?
生は我々の側にある、彼は既に死んでいる、と。
こっち側が生の本体で、彼は「残り時間」を消化している、と。
時間で測れば、短いのかもしれない。
(じっさい6か月よりもっと短かった。)
でもその時間は濃密で、それまで濃密に生きてきた彼の生の中でも最も濃密で、彼は今初めて生き始めた、と言える---
そう思ったのだった。
確かにデイヴィッド本人もオーランドも、「変化」、変化の「過程」、という言い方をしてた。
生きられる「過程」なんだ。