生(なま) vs. 自由

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KORG01/WFD の場合、ヴェロシティは64段階、♩=96クロック。

強弱とステップタイム、2つの要素だけに限っても、ひとつの音を、1小節4拍の中のどの位置でどの強さで鳴らすか、384×64=24,576 通りの中から選ぶことが出来る。

音楽の自由。

 

もともとは、ヴェロシティなりタイミングなりをこの微細さで設定できる仕様なのは、生楽器の生演奏をシミュレイトする、という要請からなのだろうし、じじつ私の場合、身体に染みついてしまった生ピアノのフレージングをぜろわんくんに置き換える、ということしかやってない。

そこに囚われずに、完全に自由であれるはずなのに。

楽器を弾けない人の方が自由に発想できる、というわけでもないだろう。「楽器を弾ける」ことが「不自由である」ことの言い訳にはならない。

 

ちなみに私はピアノが(他のあらゆる楽器も)ド下手である。

ごく若い頃は、ピアノと簡単なキーボードと、間に合わせの貧しい機材で、自作自演の録音を試みもした。

「打込み」が私に齎されたのは10年前である。

作曲者自らさらって弾いてここまでしか出来ないのに、機械にやらせて何が出来るものか、と高を括ってたら、頭の中のイメージ全くそのままの音楽が実現してしまって、びっくりし狂喜すると同時に、口惜しかった。

 

さっき不用意に「ヴェロシティ」といったけど、これは打鍵の速度のことで、生ピアノの場合

ヴェロシティ=強弱(=音量+音色の明るさ+α)

だけど、打込みの場合、ヴェロシティによってコントロールできるパラメータは「強弱」に限らない。

この点でも、もっと自由であれるはず。

強弱のために設定したヴェロシティで「わざと間違えて」別のパラメータをコントロールする、とか。

 

「生ピアノの場合《重い/軽い音色》というのがあるからな。つまり『巨人の星』だ」

「は…はい」

「却って判りにくい喩えだったかな?」

「『ヴェロシティ イコール パワー』と思ってたのですが。物理的に言うとそうというか」

「それは誤った捉え方だな。だから『巨人の星』と言ったんだ。まあ『巨人の星』の筋なんか知らないか…」

 

星飛雄馬は「剛速球」の人だった。

「だから誰も打てませんでした。完」

とならず、ものすごく長い年月連載されたのは、彼の球質が

「速いけど軽い」

からだった。その弱点カヴァーのための「大リーグボール」開発の全記録、が「巨人の星」のストーリーだ。

「速いけど軽い」ことを力学的にどう説明できるのか、「球質」って何なのか、私には判らない。

上の方のアドヴァイスを「実践」に応用する方法も判らない。

 

テクノポップ」最初期には、あるいは「ジャストなタイミングと平坦なヴェロシティによるチープさ」を、克服されるべき音楽的短所とせず、そこに積極的に新鮮な魅力を見出す、ということがあったかも知れない。

従来の音楽(プログレとか)のあまりの「音楽らしさ」の反動もあったかも知れない。

ドビュッシーのあとの六人組、みたいな。)

でも「テクノポップ」という言葉の発明者*2YMO 自身は、根本に「グルーヴ」への問いがあった。「テクノの人」になれるのは「テクノだけの人」ではない。

 

前回の記事を書くうち「生っぽい打込み」についていろいろ思い巡らした。でも気付くと既に似たようなこと書いてた:
shinkai6501.hatenablog.com 

ブログで音楽について書くスタンスはいろいろあるが、ことさら「当ブログのスタンスはこうです」と説明しなくても、記事のスタンスは、記事を書くことによって、提示してる。読めば判る。

私の場合、省みるに、「私は」で始まる文が多い。「音楽に即して書くこと」と「私が自分の耳で《聴いた》ことを書くこと」が私の柱なんだと思う。

 

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やっだー 何これー 使い方わかんなーい!

 

*1:タイトルには脚註付けられないんだ…「俺 対 武士」みたいなタイトルだな。

*2:テクノポップ」という言葉を最初に使ったのは阿木譲の「ロックマガジン」、という説も聞いたことがある。