【お題2】私が◯◯にハマる10の理由

はてなブログ10周年特別お題「私が◯◯にハマる10の理由

 

「私が KORG01/WFD にハマる理由」

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要は「私自身のコミットメントが積極的になる、ならざるを得ない」からです。

 

エフェクターが独立2系統しか同時に使えない

② PCM波形が納得いかない

私は外部エフェクターをもってない。すべてのプロセスをぜろわん君内部で完結させるのは、美学ではあるんだけど、貧乏が最大の理由だ。

ディストーション・ギター」の波形が搭載されてはいる。でもこれがショボい。例えば「あるノートに重ねて、半音ないし全音下からベンディングでピッチを近付けてゆく奏法」(名前知らない)では、干渉がディストーションによってモデュレイション化しなければならないが(正しい説明じゃないかも。原理的には何だろう?差音が生じるとかかな?よくわかりません)、「ディストーション・ギター」の波形をドライで使ってもこの効果が出ない。この上からさらに「エフェクター」の「ディストーション」を掛けて倍音を豊富にする必要がある。

この音色だけ呼び出してソロで弾くぶんにはこれで事足りるんだけど、「シークエンス」モードで、つまりフルオケの中のひとつのパートとしてギターを使う時に問題が生じる。オケ全体に対して2系統しかエフェクターを使えない時に、ギター・パートだけのためにそのうちのひとつを割いてディストーションを使う、ということが出来ない。

音色そのものを工夫せねばならないわけです。どうするか。「チェロ」の波形を重ねるのです(「ウェイヴ・シェイピング」機能併用)。これでさっきの奏法をやると「ギュイーン」っていってくれます。

ぜろわん君は音が良い、と評する方もいらっしゃる。好みの問題なんだと思う。私はクラシックの楽器法が欲しいので、ぜろわん君とやってゆくには工夫が要る。弦の「コン・ソルディーノ」の波形が搭載されてないので「エンファシス」機能で響きを虚ろにしたもので代用するとか、「トレモロ」が無いのでアタックをはっきりさせた音色でトレモロの1個1個のボウイングを打ち込むとか*1

音色が良い、ないし音色の選択肢が豊富に揃ってる、ことは良いことに違いないけど、欲しい音色がお膳立てされてない時、工夫をすること、けっきょく欲しい音そのものには到達できないにしても、工夫のプロセスが楽しいしそこに価値がある、というブリコラージュ的発想こそ大事だ。

 

③ ディスプレイが狭い

打ち込んでる曲について、全てのパラメータをひとつの画面で同時に見ることが出来ない、ということは、頭の中に、曲についての情報が全部入ってて、あそこのパラメータのヴァリューは今いくつになってる、と把握してる必要がある。おかげで自分の曲について自分の頭で理解することが出来る。

 

④ 演算が遅い

スペック的には優れモノなんです。でも実際に鳴らすと、MIDI 情報がほんのちょっと1か所に集中すると、途端にノートの発音が遅れたり、コントロールが乱れたりする。「自らの演算処理能力を超えるスペックを具えてる」。なので、「余計な情報はデリートする」習慣が身に付く。

 

⑤ 「ウェイヴ・シェイピング」の沼

音色をいじる、60種類の「ウェイヴ・シェイピング」機能の、それぞれの原理はわたし的ブラックボックスなんだけど、元波形を劇的に変化させる。デプスのヴァリューをほんの少し変えるだけでガラッと変わるので、全体を把握して意識的にコントロールするのが不可能と思わせる。だからこそ「ハマる」。

 

⑥ プリセット

びっくりしたことがあるんだけど、シンセの中には、ドラムのパターンなりフレーズなりがプリセットで搭載されてるものがあるらしいのだ。

フレーズを自分で作らなくて意味があるのか?

フレーズをああでもないこうでもないと捏ね回す「作る」楽しみとか、ステップタイムをクロック単位で作り込むとか、ヴェロシティを作り込むとかの楽しみを機械の側に奪われて、何が楽しいの??

ぜろわん君はそんな無粋な奴じゃない。

 

*2 記憶媒体はフロッピー・ディスク

フロッピー・ディスクにデータをセーブして郵送するだけで彼と情報の共有が出来る。便利!

 

⑦ ライン 2ch. オーディオ出力

今までオーディオ出力を MP3 に変換するソフトを使ってた。さいきん PC を買い替えた。先代 PC が壊れての買い替えだったので、当座 SoundCloud などへのアップが出来ない。どうしよう。

 

⑧ PCM 波形が納得いかない Pt. 2

私がやりたいのは「作曲」なのだ。

作曲者は音色に頼ってはならない。音色が良いシンセは、キーを押すだけでもう、何かの音楽的価値が達成されてるみたいに見誤らせる。コンポジションの貧しさをカヴァーするために音色を使ってはならない。

 

⑨ 目の上のたんこぶ

「ぜろわん君内部だけで完結させる」ことにこだわる理由はもうひとつあって、ぜろわん君を私に齎した人物が、これ1台で全部やってるとはちょっと信じ難いような作曲をやってて、ライヴァル意識です。

 

⑩ そもそも、

ぜろわん君が=打込みが私に齎されたのは10数年前。

それ以前には、ピアノと簡単なキーボードと、間に合わせの貧しい機材とで、自作自演の録音を試みもした。

作曲者自身自らさらって弾いてここまでしか出来ないのに、機械風情にやらせて何が出来るものか、と高を括ってたら、頭の中のイメージ全くそのままの音楽が実現してしまって、びっくりし狂喜すると同時に、口惜しかった。

ここまで、ぜろわん君の細かな「くせ」について不平を連ねたけど、打込みという手法自体は、私のやりたい音楽を実現してくれる。

 

「コミットメントが積極的」といっても、私は楽器を自作はしないし、楽器の材料になる木を植え育てはしない。

打込みということは演奏すら自分でやらない。ただ、「機能をマニュアル通りに使いこなす」ことはすなわち「使う」ことではなく機械に「使われる」ことであって、ここに陥ってはならないと心得てはいる。

大事なことはたぶん2つあって、

① 自分が何をやりたいのか自分で判ってて、これのために機材を使うこと。

② いっぽうで、機材からインスパイアされることを歓迎し、現場のハプニングを、目的や予定のせいで見逃さないこと。

「積極性」とはこの2つのことです。

*1:そもそも「ソロ・ストリング」という波形があるだけで、「ヴァイオリン」とか「チェロ」とかが独立してない。いくらなんでも乱暴だ。ヴァイオリンの低音域が欲しいと思ってもその音域はチェロの音色になってる。開発者がクラシックの楽器法をどう捉えどの程度重要視してるか、判ってしまう。

*2:追記 ⑥が2つあって11の理由になってた。まあいいや。

メモ(中2)

中2(文字通り)の私にとって、ロックは、オトナを軽蔑するとか自分がオトナになることを恐怖するとかの思想だった。

自分に自信があったのではなく、自分の貧しさ幼稚さからっぽさには焦ってて、でもその焦りを「人生経験、実体験」で克服することは「きたない」ことで、というかそれは克服ではない、という感覚。

 

経験によって思想を豊かにしてゆくことは、そのじつ頭の中に草(ドクサという名の)を繫茂させることで、それを豊かさと称して慰めを得てるのだ、と。

 

ということは、私の前提にあったのは、真理というのは、本来元々持ってるもので、ヒトはそれを忘れてしまってる存在で、それに還ってゆくことが道なのだ、ということ。

真理へは、経験によって近づいてゆくのではない、経験によってヒトは本来元々から外れてゆく。

 

経験に基づくオトナの言葉には説得力がある。反論するとアオさを嗤われる。

説得力があるからこそ、この威圧から頑なに、私の真理を守らねばならない。これが私のロックの思想だった。

 

前回

「「知恵が付くこと」と「素であること」とは、矛盾するのか、しないのか」

と書きながら、思い出してた。

【お題4】10年で変わったこと・変わらなかったこと

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

 

「多様な価値基準を持てること」は格好良いことではあるが、私は、私の審美眼が鋭くあるために、「何を好きか」と同時にそれ以上に「何を嫌いか、許容できないか」を明確にする。それが表現者には必須と思ってる。

 

長ずるにつれ、聴く対象を、いっぽうでは拡げ、もういっぽうでは厳しく選別するようになる。

いっぽうでは、ジェネシスドビュッシーを好む12歳の耳にとって「音楽」の範疇に無かったタンジェリン・ドリーム『アルファ・ケンタウリ』やシェーンベルクを、22歳の耳はものともせず聴く。

もういっぽうでは、「エリーゼのために」と同じくらい名曲だと思ってた「乙女の祈り」を、とても聴けなくなる。

自由になってるのか、不自由になってるのか。

 

「知恵が付くこと」と「素であること」とは、矛盾するのか、しないのか。

「10年前の私は素の私だった、今は外から借り入れた知恵に随って物事を見てる」わけではあるまい。遡れば「純粋な私、本来の私」がいて、学ぶことによってそこからはぐれた、のではない。そもそも私のモノゴコロは、外からの刺戟で始まったものに違いない。

 

真の創造性を求めてるつもりだけど、そもそもその動機がどこから来てるのか、考えることがある。

目指すべき理想があるのか、単に同じところにいることに飽きて次を求めるのか、他人との比較で優越感が欲しいのか(どれもアリだけど)。

幼稚を克服して次に進むことを止めはしないけど、ふと、貧しい音楽であってもそれで心満ち足りてたのならそっちのが幸せだったのでは?とも思う。

 

10がキリ番なのは、ヒトの日常生活がたまたま10進法を採用してるからだし、10進法を採用してるのはたまたまヒトの指の数が10本だからだけど、いったんキリ番と決まってしまうと、これが心理を律する。

音楽史を考えると、『宮殿』の1969年から見た1959年って歴史の彼方だけど、2021年は2011年からの同じ時間の続き、と感じるのは何故なのか。

さすがに直近の2年間は、こんなだけど。

 

私個人の、音楽についての好みや考え方は、少なくとも意識の上、なーんも変わってない。

ただ、大きいのは、作曲を再開したこと。きっかけはこの曲。

2016年07月24日、ばりゃぴさんのお誕生日に、作曲して、打込んだ(後日少し手直し)。ちょうどこの10年の真ん中の年。

 

音楽生活を続ける中で、「変えてゆく/変わってゆく」(それは必ずしも「進歩」を意味しない)には、いろんなやり方/なり方がある。

① 意識的に「同じことを2度やらない」、「書くすなわち拓く」な場合。漫才でいうと爆笑問題

② 音としては同じだが、意識は毎回新た、という場合。

③ 意識としては同じことを繰り返してても、加わるもの、省かれるもの、深まるもの、があって、変わっていく場合。お決まりのギャグを持ってて、それを繰り出すとウケる、というほうがふつうなんだろう。

どれが正しいかという話ではない。

楽家は一生を掛けて、クロニクルというひとつの作品を作る。主題があって、それが繰り返し登場することで作品が展開するし、ぎゃくに作品の展開の成り行きによって主題の形や意味付けが変わる、というイメージ。

 

実際の作曲の場面についても、作者が意図的に主題として設定するもの以外に、作者も気付いてるとは限らない、分析すると出て来る音形があって、それは1作品内に収まらない「作曲活動全体の主題」で、こっちのが、深きに由来する、本来の主題なのではないか?