私を構成する6枚

すこしまえに「#私を構成する9枚」が流行った。

「今時点の私にとってヴィヴィッド」というのとは違う。

ケツに抜かしてるもの、いや血肉化してるもの。血肉化してることを私自身意識できてるとは限らないもの。

それとの出会いによって私の世界が変わった、でも今の私にとっては当たり前の、音楽。

 

 

その意味で私を構成する、1枚目は、これだ。

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「こんなに好き勝手やっていいんだ!」というショック。この「好き勝手」ということが、そのまま私にとっての「プログレ」の定義、と言い切って良い。

 

とんがったままごちゃついて、多様な可能性に開かれて、聴き手の耳を自由にし活性にする。この「ありよう」が、作品としての「完成度」に優先する。

完成度を測ることはものさしを前提とする。プログレは逆にものさしを疑うことだ。

そしてこの私のプログレ観を決定したのが、この『狂気』だった。

例えば、最近やけに好評の BAROCK PROJECT が、私には「約束づけられた問いの立て方への約束づけられた回答のし方」にしか聴こえなくて、全くワクワクしないのは、私のプログレ観がつまりそういうことだから。

 

 

 ②

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「夢見がち」な少女を「覚醒」させた1枚。

 

音楽は音楽自律の「方法」に徹せねばならない。

音楽作品が「幻想的」「シュール」であっていけないわけではないが、私の、イメージありきでその表層をなぞり音楽に置き換える企て(描写音楽、標題楽の発想)は、悉く不毛に終わった。

このアルバムと出会って、作曲のスタンスが変わったし救われた。

 

このアルバムをシュールと評することも出来るかもだが、「シュールを作曲・表出してる」わけではなく、逆に「システム」を設えることに徹してるふうに見える。その中に放り込まれた音の素材が物理的即物的に振る舞うための。音の振舞いが「作曲・表出」のコンヴェンションを逸脱してるので結果としてシュール、ということはあり得る。

結果を予定しないこと=新たなシュールを拓くこと。

 

 

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4曲中3曲が、帯に記載の Gong Kebyar Dharma Santi による演奏。

最後の1曲は別グループの演奏で、スリン・ガンブの編成。

ゴン・クビャールのほうは、派手な響きと超絶速いテンポで、「バリのガムラン」鑑賞欲をこれでもかと満たす。

でも私が魂持ってかれたのはガンブのほうで、響きが、イメージしてた「バリのガムラン」とまったく違ってた。幽玄というか、静謐で秘儀的。

けたたましいグンデルではなく、トライアングルみたいに高く澄んだ音色の金属打楽器(名前忘れた)や「鈴の木」でビートが刻まれ、主メロは数本のスリンのユニゾン。小節(こぶし)の多いメロディをユニゾンでやることで、モノフォニーでありつつ半ばヘテロフォニック。

音階も、分類すれば「ペログ音階」なんだろうけど、それで割り切れないこの世ならぬ調子。高音域で別の音階が接続されるように聴こえる。

 

このアルバムは日本公演時の録音。ガムランはいっぽうではコミュニティの「場」と結びついて「持ち運びできない」性質を持ってる。もういっぽうでは、そのあまりに高度な音楽を、音楽自体=芸能として切り離して、世界各地のコンサートホールをツアーして回るべき、また世界各地の演奏家によって取り上げられるべき、ユニヴァーサルな性格を持ってる。

私は例えば小泉文夫の現地録音にこそ「本物」を感じるけど、いっぽうで、音楽自体を聴くのに、アレンジの構造を完璧に捉えたこのアルバムの価値は高い。

 

 

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戦後のいわゆる現代音楽を、難解に戸惑ったり、能書に退屈したりしながら聴き進むのに、こういう、審美的な、響きとしてうっとりする音楽との出会いが励みになる。

Ohana は「オアナ」表記が一般的だろう*1。タイトルの 'Syllabaire pour Phèdre' の正しい訳(=作曲者の含意)は判らない。syllabaire(表節文字)は「音節を単位として表す表音文字」だから、そのいちばんよい例は、日本語の「仮名」。

www.youtube.com

*1:追記 2020年04月20日

「1976年までイギリス国籍であった」(Wikipedia「モーリス・オアナ」)とのことだから、このアルバムリリース当時は「オハナ」表記が妥当だったのだろうか?

日記

「赤」の定義を読みたかった。

 

広辞苑第四版にがっかりする。曰く:

 

あか【赤】(一説に、「くろ(暗)」の対で、原義は明の意という。→あお)①七色の一。血のような色。また、緋色・紅色・朱色・茶色などの総称。(以下略)

 

広辞苑には「辞典」としての役目と「事典」としての役目とを期待している。

「辞典」としてなら、やまとことば「あか」の語源、語義の広がりと限定(できれば「字典」として漢字「赤」の字源字義も)を述べればいい。

でもいっぽうで、今私が読みたいのは、「赤」とは現実においてどういう現象なのかの説明、「赤」と呼ばれる現象のいちばん厳密な定義で、つまり「事典」の役目を期待してるのだった。

たとえば光の波長で定義すれば、「赤」の語で厳密に「たった一つの色」を指し示すことができる筈だ。

私の読みたい記述は Wikipedia「赤」の項にあった:

 

国際照明委員会 (CIE) は700 nm の波長をRGB表色系においてR(赤)と規定している。

 

にしても「血のような色」ですか…

これは「血のような色を赤と呼ぶ」という「定義」ではなく、「血はたまたま赤い」という事実の追認、「観察結果の報告」ですね…

これがまずいのは、真実は、血の色で赤を説明するのではなく、赤で血の色を説明するのだからだ。赤の定義が「郵便ポストのような色」「消防車のような色」ではなく他ならぬ「血のような色」で行われなければならない理由が無い。

「血は赤」だが「血が赤」ではないのだ。

 

ちなみに、広辞苑の前掲項に「→あお」とあるので、参照した:

「(一説に、古代日本語では、固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、それは明・暗・顕・漠を原義とするという。(略))」

 

追記 これ思い出した:

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数年前、上野毛に引っ越したのは夏だった。

住み始めて数日目のある夜、部屋にいると、俄然、辺りが騒然となった。通りに、かなりの人数が繰り出し、進んで行く音がする。

非常事態が展開してるようだった。何事?と思ってると、間近にバン(銃声)!地響きがドン(砲声)!

市街戦だった。

近くを多摩川が流れてるのを意識してなかったし、花火大会があることに関心を払っていなかった。

 

 

単位「カロリー」を「熱量」の意味の名詞として使う。「カロリーが高い」「カロリーを摂取する」

「センチメートルが長い」「デシベルを稼ぐ」とは言うまいに。

 

もっとも、「カロリー」は「熱」の意味の語源(ラテン語)から来ている。

でも、巷で、そういう語源が意識されてこの用法が行われ、浸透してる、わけではないだろう。

 

何故「カロリー」だけにこれが起きるのだろう?と思ってると、最近「ギガ」についてのツイートを見掛けた。「ギガが減る」という言い回し、「2ギガしか残ってない」ではなく「2しかギガ残ってない」という言い回し、が行われるらしい。

 

 

大事なアイデアはトイレで思い付く。

トイレを出る頃には必ず忘れてる。

そうだ、メモ帳を備え付けておこう!

というアイデアをトイレで思い付く。

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さっき友人との会話の中で、cucumber という単語は「不思議の国のアリス」で憶えた、という話をさせてもらった。

それで、そのくだりのあらすじを、原文を見ずにどこまで思い出せるか、やってみたくなった。

「ビル、送り込まれる」の章。白ウサギが、アリスを女中のメアリ・アンと取り違えて、家に戻って扇子と手袋を取ってくるように言いつける……

 

 

白ウサギの家の中で身体が部屋みっちりに巨大化して、入りきらない片腕を窓から外に突き出した状態のところへ、焦れた白ウサギが帰ってくる。

「メアリ・アン!何してる?!」

アリスは突き出した手で(不自由な体勢のため外の様子が見えないので、あてずっぽうに)白ウサギのいそうなあたりの空を摑むと、キャッ!という叫び声がひとつして、ガラスの割れる音。

「キュウリ栽培のフレームの中に何かが落ちる音」みたいな。

白ウサギの声で「パット!パット!何してる!」

「リンゴを掘ってるんでさあ、旦那」

「リンゴを掘ってる!このマヌケ!早く来い!私をここから助け出せ!」(ガラスの割れる音)

「パット、窓のアレは何だ?」

「腕でさあ、旦那」(arm を arrum と発音)

「あんなサイズの腕があるものか!」

「おっしゃる通りでさあ。でも結論としてアレは腕でさあ」

「とにかくアレがあそこにあっていいわけがない。取り除けろ!」

アリスがもう一度空を摑むと、キャッ!という叫び声が今度はふたつして、さらにガラスの割れる音。

「まあ、ずいぶんたくさんキュウリを育ててるのね」

 

 

……このあと近隣住民総出のアリス排除作戦が試みられ、最終的にビルが家の中に送り込まれる。

本文の描写では、小さくなったアリスが家から脱出する際、人だかりの中に、介抱される1匹のトカゲの姿を認め、「(それがビルでした)」と説明される。これがアリスがビルの姿を見た最初、つまり読者にとってもこの時点までビルが何者なのか判らない。

本文ではそうであるのに、それに先立つページにビルの挿絵があり、正体がトカゲであることがバレている(マクミランのペイパーバック、ペンギンブックス "The Annotated Alice" の場合。挿絵はもちろんサー・ジョン・テニエル)。