感覚

こういう雲初めて見ました。雲を見ると、物を見るというより流れとか波とかを見る感覚ですが、これはとくにそう。
私たちは空の底に住んでいる。

いいの程度の差じゃなくて、「なんかいい」には「いい」にはない予感とかワクワクとかがある、評価が定まってるか、これからはっきりしてゆく・はっきりさせたくなるように誘ってくるかの差、かな?
私と対象の関係に「ユルさ」があることが気持ちをフレキシブルにして心地良いのか?
あと、必ずしもいつも「私」が価値判断しなくても、何か広大な「おまかせ先」が、いいものはいいと解ってくれてる、という感覚を持てる時が、じつはいちばん確信を持てる時なのかな?とも。

ヒトの視細胞には2種類、明るい光を感じるものと暗い光を感じるものとが別々にあって、色を見分けるのは明るい光を感じるほうのやつ、みたいなことを聞いたことがあるので、空が暗くなってゆくと、空の色は「無くなる」のだと思います。色は、ヒトの感覚があるところに、ある。

ああそうか。たしかに、私は世界を見、聴き、感覚するとき、これすなわち音楽を考えるヒントを求める姿勢になってるけど、これ「最終的に音楽作品という形に落とし込む」とイコールじゃないし寧ろそこに陥ってはいけない。但し私の場合少なくとも「音」に「耳を澄ます」ことは音楽であるための条件だなあ。

俳句くらい短いと、感覚に直接訴える表現になるのかな? 短歌は、短さの中に散文の情報量を背負わされてる感じ。語が可能性として持つ「広がり」と、文脈の中での「厳密」を、検討し尽くさないと読めないというか。