KENSO「月夜舟行」

ふだん、他人様の音楽作品の良し悪しを測る、私なりの基準、こだわりどころには、それなりに確固としたものがある。
でもたまに、そういう基準の埒外の、超絶的なものに出会うことがある。

KENSO「月夜舟行」、『スパルタ』(1989年)所収。
キーボーディスト小口健一の曲。
リーダーでメインの作曲者、清水義央は、ギタリストなんだけど、作曲の発想はむしろキーボーディスト的というか、多声部を重層的に把握して、相当込み入ったことをやる。
キーボーディストの小口の曲のほうがむしろ重層性が無くて、この曲など、ホモフォニックだったり、箇所によってはコード進行があるだけ、響きがあるだけ、みたいな印象だったりする。
清水曲との比較で、ポリフォニックな書法が無いとか、手の込んだことやってないとか、KENSO 世界の傍系・二次的なものだとか、の評価を下せそうである。
でも、本当の「降ってきたインスピレイション」としての「譲れない着想」を感じさせるのは、この小口曲のほうだ。それは浮世離れしてこの世ならぬ、何かの出典に帰することの不可能な、他の誰も耳によっても聴き出し得ない、イっちゃってる境地なんであって、出来合いの基準で優劣をいうのがおこがましい、そういう存在。
コード進行があるだけといっても、そのコードの響き自体がもう、それを連ねる符割自体がもう「鉱物質の中に夢を見る清冽な陶酔」で、響きがあるだけといっても、そのシンセによる音色作り・響き作り自体がもう「鉱物質の中に夢を見る清冽な陶酔」で。
着想一発でもう、いじりようのない世界、いたずらな技法によって品質向上を図るということをする余地のない、してはならない世界。

技巧なのかも知れないし苦心の末の獲得なのかも知れない。でもむしろ小口の「テンペラメント」に属するものであって他の誰もそれを「修める」ことは出来ない、と思わせる。そういう超絶的な風情。

そういえば、世の中には「なぜこの曲が1曲目なの?」と思わせるアルバムがいくつかある。Peter Blegvad "The Naked Shakespeare" の1曲目はなぜ 'Weird Monkeys' じゃなくて 'How Beautiful You Are' なのか?とか、Hatfield And The North "The Rotters' Club" はなぜいきなり '(Big) John Wayne Socks Psychology On The Jaw' で始まらないのか?とか。
Tom Newman "Fine Old Tom" の、Voiceprint 版で馴染んだ者にとってのオリジナル版とか。
この KENSO『スパルタ』も、3曲目「金髪村の石」に辿り着く前に、このアルバムを、KENSO の音楽性を、誤解したままクイットする聴き手が多いのではないか?