リリス

リリス』、ジョージ・マクドナルド、荒俣宏訳、ちくま文庫、1986年。
月刊ペン社《妖精文庫》第1巻『リリス』(1976年06月)の再刊。

昔これを読破出来なかったのは、ちくま文庫版の p. 14(本文4ページ目)に訳文として腑に落ちない一文があって、開始いきなり読む気を殺がれ、それ以上読み進めることが出来なかったから。
曰く、図書館の遠隅に「本棚に手を伸ばしている背の高い人物が見えた。いや、見えたような気がした。次の瞬間、どうやら両目が薄闇に慣れたところで、人影は消えた」「いくらか時間が経ったあとで、一冊の本を検べなければいけなくなったとき、わたしはふと、あのおぼろげな影が立っていたとおぼしい書棚の列に、わずかなすき間があるのを発見した」「そこで見た(あるいは見たように思った)本を捜す老人のことを思いだした。その場所をくまなく捜してみたが、空しかった。けれど次の朝、前に見かけたのとほとんど同じ場所に、人影は立っていた! 家の人々のなかで、こんな本に興味を抱く者はひとりだっていないことを、わたしは知っていた」
荒俣宏氏が誤訳をするはずはないから、私の誤読なんだろう。そもそも私は原文を読んでない。それで誤訳を指摘できるはずがない。
しかしこの箇所は、どう考えたって、
「本の列に1冊分のすき間があるのを発見した。そのすき間にあるべき、いったん不在だった本が、次の朝そこにあった」
という件なのではないか?
「人影は立っていた!」ではなく「本はそこにあった!」じゃないのか?人影自体は不確かだけど、その人物の存在を証明する状況証拠として、人影が手を伸ばした位置にあってそこからいったん消えた本が次に見た時にはそこにあった=人物が現に存在し、本を移動させたのだということを強く示唆する、というエピソードこそ、ここに置かれるべきなのでは?
荒俣訳でいわれてるのは、「一度見(た気がし)た人影を、次の朝もういちど見た」ことなわけだけど、エピソードとして「だから?」だし、その内容をいうためにこのシーン・この筋立てが必要とは思えない。話の段取りが不自然になってる。
人影の目撃が2度になったからといって、おぼろげなものが確かになるわけではない。これが物的具体的な「本」の消滅と再出現という「視神経がちょっとのあいだ内がわから刺激されたせい」では説明のつかないレヴェルの事象に置き換わることによって「不思議な出来ごと」としてカウントされるに足るようになる。
違うかなあ?