消極的な理由のために、方法が「しかたなく」編み出されてしまうことがある。

 

アメーバには以前「なう」というツイッターに似た機能があった。

5年前、アメーバ退会に際して、アメブロ記事を手作業ではてなに移した時、「なう」も一部コピペして来た。なかに、相手のある「会話」も含んでいた。

会話のうち、私のターンだけ、コピペして連ねる。

第3者が読んでも、誰のどんな言葉への返信なのか、そもそも話題が何なのか、判らない。判らないながら、言葉の端々から想像されるものがある、という体裁になった。

狙ったのではまったくない。引っ越し作業を「しかたなく」行う中で、とりあえずコピペして並べておいただけ。

相手の発言の具体に即して書かれたことが、具体を隠されることで「象徴」を帯びる。読者のイマジネイションを刺戟する「詩」みたいになる。

 

ツイッターやブログ記事のコメント欄での「会話」からのものも含んでるみたいだな:

 

組成に珪素を含むみたいな空気の満ちる中の、風景は沈殿物で、水平線上で奏される音楽はしかし、遥かな距離を渡って私の耳に届く頃にはすっかり変容して、雅楽なのか、カムイユカルなのかすら定かでない程です。

私が日本からはるばる旅をして、プラズマが太陽からはるばる旅をして、アイスランドの地で出会う、その神秘がオーロラの美しさの正体なのかな。

2つの純音が長い周期でうなって、ふっと消えて、また戻ってくる、その感じでしょうか?音が、広大無辺の時空の来歴を背負って、たまたま私の前に現れている、また大きな世界へ還ってゆく、そういうイメージが湧きました。

花火、万華鏡、雪の結晶、鍾乳石…原理は単純で、一般普遍で、でも変数の値の、ほんの僅かな揺らぎが、無限に多様な個別特殊のアウトプットを生む。ヒトの作為の造形の、永遠のお手本。

熊谷守一への私の勝手な先入観故か、「脱力」とは見えないです。寧ろ形をとってそこに在ることを辛うじて最後まで許された者の、本質の確かさとも次の瞬間には消え入る不確かさとも取れる、ぎりぎりの存在ぎりぎりの認識の「緊迫」かと。

ホーム・センター【home centre】〘名〙造形に溢れてることと、しかもその全てが機能美なことと、図鑑みたいに秩序立てられていることと、あと何より圧倒的な物量でしょうか。世の中を回している機能を網羅した、宇宙の見本、宇宙そのものです。

コンテンツが1つ世の中に提示されると、そこにクリエイター、ユーザー、評論家がこぞって参画して批評体系が現出する様はダイナミックです。

玉縄桜というのを知りませんでした。冬の名残りの空気の中で見る染井吉野というのは格別の風情です。

ひとつ、動物に関しては、感情移入といえばそうなんですが、単にカワイイというのとちょっと違ってまして、街でもカフェでも島でもない、他ならぬライフをプレイするのに、所詮ゲームであっても、生き物を扱うリアルなセンスが根底になければ、そもそも楽しめないだろう、という思いです。

そこを抜かすと単なるクリック操作だけの世界になって、いたずらに効率を求めるようになるのかなあ、と。

レイキャヴィーク

アイスランドの中では大都市といっても、静かで、急がされてないという印象。きれいな街。

ハトログリムスキルケ教会は、伝統に忠実でありつつモダンなデザインという風。ゴシック聖堂みたいに天を目指すのはカトリックを思わせ、天使の壁画はロシアイコンみたいで、でもアイスランドはたしかルター派が多いんですよね?不思議。

地球は生き物、ダイナミック。

アイスランドは、地球の姿が作られる、現場、最前線。

溶岩が噴き出し、固まる、その時の条件で地形にヴァリエーションが生まれ、

大地の裂け目が落差を生み、

そこを流れる水は、表情がさまざま。

エルフのために工事計画ルートまで変える国。

 

 

4つの過去記事から抜粋しました:

 

以上を、さっき自分のツイートを検索するうち、思い出した。検索ワードは「営み」。

 

わああご丁寧にありがとうございます! 3連目があると、時間と空間の広がりと繋がりの中で、ヒトの営みも、世界とともにある自然なこと、という感じがしました。慈しみをもってそれを見る感じ。