命題「フレームの外への延長を想像させる写真が良い写真である」

ロキノンの、たぶん1980年代のバックナンバーで、岩谷宏が「フレームの中で完結せず、その外への延長を想像させる写真」を「優れてる」だか「好き」だか書いてた(曖昧な記憶、不正確な引用)。何を論じてる中で、何を言うための比喩としてそう言ったのかは、完全に忘れた。

「外」は、単純に「空間」でもあるだろうし、「世界の仕組み」でもあるだろう。

空間的に視野を限ることによって却って宇宙の真実を示唆する。

時間的にも、写真は瞬間を撮るものであるからこそ永遠を言い当てることが出来る。

 

この記事

で、

前々回ドビュッシー『聖セバスティアンの殉教』の「アドニスアドニス」の合唱について、前回 Thomas Dolby "The Flat Earth" について書いたきっかけが、今回のこの記事の3曲目に貼る曲を探してたことだった、ということの脈絡を説明するのは難しい

と書いてた。お題は私自身にとっても漠然としたものだったのだけど、要するに「『超越』を感じさせる曲」ということだった気がする。 

音楽作品という枠の中にあって、これを超え出るのに、象徴の力で深いものを言い当てたり、物理的に周波数のヒトの可聴範囲の外への連続を思わせたり。

 

「良い写真とは〇〇である」の命題をいくつも立てて遊べそうだけど、今ふと思ったのは「オプティカル」であること。写真がオプティカルというのはトートロジー以外の何物でもないけど、例えばアイドル雑誌のグラヴュアとか、オプティカルであることに意識的であることが殊更要求されないであろう場でも、私は「まるで(紙に印刷されたものなのに)透過光で見てるみたい!」「これポジで見たい!」と思わせる作品に出会うと喜ぶ。