何かの隊列

先日この記事

で、Kraftwerk 'Schaufensterpuppen' と Faust 'Krautrock' について書いた。つまりはビートはありつつ拍子が解体されてる音楽なわけだが、そういうのはミニマルやポリリズムの方から突き詰められてそうだし、クラウトロックでいっても、例えば Harmonia "Musik von Harmonia" (1974) 所収 'Watussi' がその例として判りやすい。

というか、これが、私が初めて出会ったポリリズムだったかも。戸惑ったし。

こういう、コンポジションのコンセプトをそのまま提示したようなザッハリヒな曲ですら、聴き手はそこから勝手に「絵」を思い浮かべてしまう。

とくに私の場合、このアルバムに面と向かって出会ったのではなくて、エアチェックのカセットテープ、様々なアーティストが雑多に入った中の2曲として 'Watussi' 'Sonnenschein' を聴いた、という事情があった。アーティスト名もアルバム名も判らぬまま、AMラジオ特有の音質で聴くこの2曲は、視覚イマジネイションを刺戟した。ことに 'Sonnenschein' は、リズムパターンとメロのモードが、中央アジアの何かの隊列をイメージさせ、プログレ少女の心象風景のとくに親密な一角となった。

ちなみにテープには、曲に先立って、阿木譲とおぼしきパーソナリティの声が一瞬入っていて、曲名を「ソンネンスチェイン」と紹介していた。

後年アルバムで再会した時は「この曲! Harmonia だったのか!」ってなりました。

 

Eno のこの曲だって、視覚イメージ喚起を狙ったものではない筈だけど、リズムパターンと、1'43" 以降のオルガンが、中学生の私に「中央アジアの隊列」を思わせた。オルガンとは認識せず、ケーン(笙)か何か、正体の判らない音色と音形に聴こえて、つまり「エキゾティシズム」の対象だった。

0'53"~の Fripp が凄い。

 

ザッハリヒな Harmonia と Eno の曲が、当時の私の中で、Jon Anderson 'Naon' と同じ枠にカテゴライズされていた。

'Naon' は、前後をメドレーで挟まれて、2'32"~6'03" 。フェイドインで「視野」に入ってきて、フェイドアウトで去ってゆく、隊列。

 

私が標題楽的な聴き方をしなくなった、出来なくなったのには、吉田秀和の影響が大きい。