親類の集まりに顔を出している。子どもの頃以来接触の無かった彼女らを私は具体的な人物として認識出来ない。よそよそしい場。
ある座に列して閑談してると、祖母(に当たるらしい人)が自室から現れて「智子は私の相手もしてくれなきゃ(福岡弁で)」。歓待されてる。「確かにそうだよね」子どもみたいに甘えた笑みで猫みたいに床でお腹を上にする彼女の肢体が、思いの外若く艶めかしい。
私の存在は、稀な客人として、場の一環の一イヴェントとして場に収まってる感があるが、億劫さと、分不相応さから、場を抜け出る。「ここは東村山だから…」云々と帰宅の算段を思い巡らせつつ建物から脱出しようとして、石原真氏のお部屋の中(団地内のマンションの一室)に出る。
ということはここは中野か。地図を見ると団地の中を幹線道路が通っており、それを北に行くと都合よく中野駅に出られる。今いる部屋の、北を向いて左を通るその大通りを現実の空間内にイメージしようとして、石原氏に「違う、右だ」と指摘される。私が北と思って向いてた方角は本当は西で、90°取り違えていた*1。
「場に収まって、期待されてる」感はここでは「いくつかのバンドが出演するライヴ・イヴェントの一環として、私が出演し過去放映された映像作品が上映される」という話になってる。さっきの親類の集まりとは違って、創造でのつながり。生のライヴ出演は辞退したいが、この作品の上映なら私も OK だし積極的にもう一度見たい。客席の一番前の列に座る。私は観客たちに私本人がここにいることを、隠したいのか、気付かれたいのか。この上映で私はますます Phew(「終曲」ジャケの)似という印象になるだろうか、と思う。
*1:90°取り違えたから左の道が右に来る、というのは、現実の理屈ではおかしい。
あと、もちろん、私は現実では石原氏と面識がない。