自己目的化、お金

クルマには「速く」動いて目的地に「早く」着く、という用途がある。

「早く」が目的で、「速く」はそのための手段。

そもそもはそうだけど、例えば F1 では「速さ」がそれ自体として(移動手段としての有用ということから切り離して)極限まで追求される。

世界最速のマシーンを見ることは快感であり、美であり、救済だ。

F1 の技術が「結果的に」世の中の「ため」に還元されるということがあるとしても、それ故に価値があるのではない。ぎゃくに「速さ」というただ一点を突き詰めるために生じる犠牲、歪みがある。速さの追求は、環境に配慮しない。騒音を抑えたりしない。ユーザーの乗り心地は度外視され、ぎゃくにユーザーの側の負担を最大に求める。

それでも速さは追求されねばならない。行くところまで行かねばならない。

「美」のために。

 

科学は、応用として、世の中の役に立つから価値があるのではない。純粋に科学そのものとして価値があり、そういうものとして極限まで追求されねばならない。

 

音楽は用途のためのものではない。純粋にそれそのものとして追求されねばならない。音楽が用途を持ち得た時代があったかも知れないが、今現在それをやろうとすると、必ず嘘になる。

 

(例としてお挙げになったダイアモンドのカッティングは、クルマに相当する例というより、クルマや音楽と同類のもの、言い換え、同じ問題のを別の事例に置き換えたもの、と見做します。そこには尊敬の対象とすべき技術があり、美があり、自己目的化してとことん突き詰めるべきものであるので。)

 

いま私は「自己目的化」の話をしている。F1 の速さは美しい。ところが、お金儲けについてだけは、何故これを自己目的化することが「醜い」のだろう?

というか、「お金儲けを『目的』とすることは醜い」という観念の根拠は何だろう?

お金儲けが醜いのではない。その自己目的化が醜い。

私が儲かることは他の誰かが損をすることである。みんながせーので儲けようとしたら地球のキャパを超える。価値のための「道具」である筈のお金が価値そのものとして振舞い始めると、お金の秩序が自然の秩序を壊す。人間関係を歪める。芸術を殺す。だから悪である。醜い。

でも、犠牲や歪みは、お金に限らず自己目的化あるところには必ずあるのではないか?