メロディ、その①

それを考え直すにはまず、それが何なのか見極めねばならない。

メロディを考え直すにはまずメロディを定義せねばならない。幾通りかに。メロディは、メロディという「形」でもあるし、メロディを奏でるという「行い」でもあるだろう。

というかどう定義できるか考えることが既に考え直すことだけど。定義をもとに検討し、検討が新たに定義する。

 

 

「メロディは何故恥かしいのか?」は、メロディを考え直す糸口であり得る。

メロディをやめたいのか、それとも「このメロディ(の奏で方)なら正しい、少なくとも恥かしくない」というものを手に入れたいのか。

 

① メロディの定義を、(リズム=符割の要素をいったん外して、)「音高の差異を使って形を作ること」としてみる。

音高をドからレに上げるのは、本来は大変なことだ。弦のテンションを上げねばならない、そこにはエネルギーを注ぎ込まねばならない。このエネルギーを注ぎ込む行いが「メロディを奏でる」ことであるのに、「音高を上げればいいんだろ」と弦長を短くする(フレットを押さえるなどして)、この「音高の自己目的化」が恥かしいのか?

 

② 仮に「作曲とはメロディを作ることではなく、システムやルールを作ることである」として、システムやルールが「メロディを生むことを目的にしてる」のか、システムやルールは他の何かのためのもので「メロディは副産物」なのか、の立場の違いがあり得るだろう。

メロディを生むことを目的とする以上、そのシステムやルールは恥かしいままなのか?

「メロディは副産物であって、そうである限りにおいてそのメロディは美しい」という立場。恥かしいのは「人為」なのか?

「鳥だって囀りにおいてメロディをやってる」ということが、「ヒトがメロディをやることの正義」の証左である、といったんは思う。でもヒトが観察すると「鳥はメロディを使って異性を呼んでいる」ように見えるけど、「鳥的には何か別のことをやっててメロディは副産物」なのかも知れない。メロディが生じることはしょうがない、もしくは積極的に美しい、だけど故意にメロディを歌ったり、生じたメロディをあとからなぞったりすることは背徳である、のではないか?

 

③ そもそも恥しくてはいけないのか?

 

 

その①としたけど、その②以降がいつになるか未定。