このタイミングで「バリア」という語を使うのは三流企業のやることですよ。
さて。
どんな内容だったのか気になる!
退会したアカで書いた、もう残ってない記事なんだけど、何を書いたか一切憶えてない。
あてずっぽうで復元してみる。以下。
音楽が「抽象的」といわれる。
でも音楽作品は、そのものとして、どこまでも具体的に眼前にあるではないか。
たぶん、言葉が何かを意味するようなしかたで音楽が何かを意味することが無い、ということを指して「抽象的」といってるんだろう。
「ロバート・フリップ」という字面と音声が、形態としては似ても似つかぬ、これ
を意味する、というようなしかたでは、音楽は、それ自体の外に、対応する意味内容を持たない。
音楽作品それ自体に即して論ずることが、とくにポピュラー音楽において「評論」と呼ばれる仕事の中に皆無であることに、私はイラついてる。
以上。
ちなみに、むかし目にした、フリップへのインタヴュアーの語るエピソードが、フリップの「剽軽さ」を伝えるものだったし、それは必ずしも「フリップの『公』と『私』のギャップ」という話でもなくて、キング・クリムゾンの音楽にはもともと、やんちゃなパロディ精神や自己批評精神、お茶目だったりシニカルだったりのユーモアが大いにある、と私は思ってるので、件のトーヤとのミツバチ動画でのフリップに私は「いかにも」という感想だった。