小野十三郎を読む https://t.co/j1udnzExEj
— 新海智子 (@coccyx_T) 2018年11月6日
「『大阪』(略)は、戦時中の国粋主義的「精神主義」に対するアンチテーゼとして「物質主義」を打ち出した詩集」「精神による思い込みよりは目で見たままを信じること、先入観や概念に依らずにありのままを見つめること」「歌に対して批評、抒情に対して非情、精神に対して物質、自然に対して人工」
— 新海智子 (@coccyx_T) 2018年11月6日
「時代はちょうど、日本的な自然観やアニミズムやロマンティシズムやセンチメンタリズムをすべて巻き込んで「大政翼賛」の精神主義へと雪崩れ込んで行く時期だ。そうした中で「精神」の危険性をいち早く察知して非情の美、物質の美に活路を求めた」「歌と逆に。歌に」
— 新海智子 (@coccyx_T) 2018年11月6日
子どもの頃、 小野十三郎を1篇だけ読んだ。「葦の地方」(詩集『大阪』所収)。「この情景描写の羅列は詩ではない」と戸惑ったが、気になる存在になった。
ということを、2年前にふと思い出して、調べてみたのだった。
以下は、全く私個別のケースの話だし、子ども時分の他愛無い誤読のエピソードだし、「葦の地方」そのものから外れるし、説明しようとすると長くなるしで、下書きのまま眠らせてた。
私は子どもながらに「詩の条件」を規定してた。単語そのものは現実レヴェルに属するものを使う。その「使い方」が在り来りでないことによって、現実とは違うレヴェルに属する「真実」を、象徴的に言い当てる。これを詩と呼ぶ。
「葦の地方」はこれに合致しないと見えた。
現実の言葉で現実を記述する。
あと、最後の行「絶滅する。」は、語そのものの意味の強さが説得力として機能しない「虚仮威し」が、平易な語で高いもの深いものを言い当てる「詩」に、凡そ逆行する。
ところが「葦の地方」には1か所だけ「詩的な言葉の使い方」があった。
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
の1行。この「高圧線」を私は「等圧線」と誤認した。「高気圧を表現する等圧線」=「高圧線」。「たるんでゐる」という象りが如何にも的確だ。現実の空を見ながらそこに、天気図上に書き表されるものである筈の、見えない等圧線を見てる。表層の裡に潜みこれを動かすメカニズムを見てる。大気が孕む予兆を見てる。The Beatles 'The Fool On The Hill' の
And the eyes in his head see the world spinning 'round.
を連想した。
高圧線は高圧線であってこの1行も即物的な情景描写の一環なのだ、と知った時、私の勝手な思い込みからの勝手な落胆は、大きかった。「これは詩じゃない」が余計に堅固になった。
飽くまで、子ども時分、最初の出会いの時にそう思った、という話です。
「ユーファウシャ」の語は、カタカナ表記では、ググってもこの「葦の地方」での用例しか出て来ない。「euphausia」でググれば、オキアミのことだ、と判る。