メモ(小野十三郎)

子どもの頃、 小野十三郎を1篇だけ読んだ。「葦の地方」(詩集『大阪』所収)。「この情景描写の羅列は詩ではない」と戸惑ったが、気になる存在になった。

ということを、2年前にふと思い出して、調べてみたのだった。

 

 

以下は、全く私個別のケースの話だし、子ども時分の他愛無い誤読のエピソードだし、「葦の地方」そのものから外れるし、説明しようとすると長くなるしで、下書きのまま眠らせてた。

私は子どもながらに「詩の条件」を規定してた。単語そのものは現実レヴェルに属するものを使う。その「使い方」が在り来りでないことによって、現実とは違うレヴェルに属する「真実」を、象徴的に言い当てる。これを詩と呼ぶ。

「葦の地方」はこれに合致しないと見えた。

現実の言葉で現実を記述する。

あと、最後の行「絶滅する。」は、語そのものの意味の強さが説得力として機能しない「虚仮威し」が、平易な語で高いもの深いものを言い当てる「詩」に、凡そ逆行する。

ところが「葦の地方」には1か所だけ「詩的な言葉の使い方」があった。

高圧線の弧が大きくたるんでゐる。

の1行。この「高圧線」を私は「等圧線」と誤認した。「高気圧を表現する等圧線」=「高圧線」。「たるんでゐる」という象りが如何にも的確だ。現実の空を見ながらそこに、天気図上に書き表されるものである筈の、見えない等圧線を見てる。表層の裡に潜みこれを動かすメカニズムを見てる。大気が孕む予兆を見てる。The Beatles 'The Fool On The Hill' の

And the eyes in his head see the world spinning 'round.

を連想した。

高圧線は高圧線であってこの1行も即物的な情景描写の一環なのだ、と知った時、私の勝手な思い込みからの勝手な落胆は、大きかった。「これは詩じゃない」が余計に堅固になった。

飽くまで、子ども時分、最初の出会いの時にそう思った、という話です。

 

「ユーファウシャ」の語は、カタカナ表記では、ググってもこの「葦の地方」での用例しか出て来ない。「euphausia」でググれば、オキアミのことだ、と判る。