描くことは見ること。見ることは愛すること。
西洋画の立場の根本的な違いとして、
「見えるがままに描く」vs「在るがままに描く」
というのがあるらしい。私がこの2つを「同じことなのでは?」と思うということはつまり、前者の立場に拠ってる、ということなんだろう。
「見る」を離れて「存在する」は無い。
「写実」の意識を以て見ると、日常「目で」見てるつもりで、如何に「観念で」見てるか、が見えてくる。
手許に資料がなくて、記憶を頼りにの引用なんだけど、高野文子『絶対安全剃刀』に、おおよそ次のような件がある。
女の子の回想。三者面談を終え、母親と連れ立っての帰り道のシーン。
回想の独白:
私は何故泣いたのでしょう
日傘が地面に影を作っていました
影は紫色と〇〇色を混ぜたような色をしていました
「図画の時間
影は黒で塗ってたけど
次は紫で塗ってみよう」
と思いました
担任教師の母親へのアドヴァイスに、傍で聴いてた女の子を泣かせるような内容が含まれてて、帰り道、無言で俯いて、地面を見ながら歩く。そういう時に見えるもの。見えること。
在るがまま=聴こえてるがままに聴く。
グレゴリオ聖歌はモノフォニーだけど、現実にはカテドラルの中で演奏される。
つまり必定深いリヴァーブが掛かって、前後の音が重なってる。
どの瞬間をとっても「和音」だ。
でもふつう、我々の耳はこれをモノフォニーとしか聴くことが出来ない。
これを和声音楽と聴くためには例えば、録音して途中から再生を始める、とか。任意の瞬間をサンプリングしてくれば、その瞬間が和音であること、曲の全ての瞬間が和音であること、が聴こえてくる。
絵でも、現実を目の前にすると、これを「写生する」のは難しくて、いったん写真に撮ってこれをデッサンに使えば、解析がやりやすい。
でもこれは「ハイパーリアリズム」になっちゃうし、愛じゃなくなっちゃう。