Art For Art's Sake

私はサヨクだが、真実希求のもと批判的に資料に当たり学び考え、セルフチェックを怠らず、そのうえで右にいる人を、揶揄や揚げ足取りの無効を知らず、相手の矛盾をあげつらい自らの矛盾をひた隠す左の人よりも、尊敬する。

いうまでもなく、左右にかかわらず、賢い人は賢くバカはバカ。

かくいう私が最も勉強をサボるし自己批判ができない。

 

私がサヨクなのは譲れない主義なのか? 仮にそこに身を置いて、左顧右眄(この文脈で「左」「右」を含む熟語を使うのは紛らわしい!)し答え合わせをしたうえで発言してる、という感覚はおおいにある。

 

だいいち、私の、本当に奥底の奥底の「本心」は、とても公言できない。

そもそも本心とは、自覚できる性質のものではない。 

突き詰めれば、ヒトの発言で、「仮にそこに身を置いての」ではないものって、あるのだろうか?

 

芸術は PC でなければならないか? 人を傷付けてはいけないか?

むしろ私なぞは、(場合によっては、)人を傷付けるためのものであって、そうであることを自覚的しつつやるものだと思ってる。

もちろん、矛先をどっちに向けるか、誰を傷付けるか、は問題だ。権力や権威なのか、弱者や少数者をネタにするビジネスなのか。

 

芸術は本来、倫理とか人権とかを超えたところにある。

そもそもヒトの力でコントロール出来るものではない。

ヒトの料簡、自己満のコンセプトために、人を傷付けるのは論外だ。でも芸術って、そういうものじゃない。

「芸術で人を傷付けてはならない」と言う者は、芸術の両義性多義性を見くびってる。

 

個人の名において作品を発表すれば、作者に、そしてもちろん鑑賞者に、責任が生じる。

芸術が用意周到に作られるものなのならまだ、人を傷つける要素を排除も出来る。

でも芸術は本来「瞬発力」であって、「いま・ここ」でしか達成されないものであって、その際もし「人を傷つけない」か「芸術に随う」かの二択を迫られたら、私は迷わず、音楽で人を傷付ける。反省とフォローが必要になるだろう、その覚悟を持って。

 

10cc 'Art For Art's Sake' の題名と歌詞内容の関係が判らない。