最初のプログレ体験で、扉が開かれる。
その先に何が待ってるのか、想像が突き抜ける。
宝庫は、こちらのナイーヴな想像を超えて、遥かに自由で遥かに豊饒だったのだけど、
それにかかずらううち、何か大事なものを置き忘れてきた気がする瞬間がある。
初心は「きっかけ」、宝庫への入り口に過ぎなくて、
宝庫は、学びきれないくらい。
でも、「学ぶ」姿勢が、宝庫を閉じたものにする。
突き抜けるのは、可能性に開かれるのは、初心。
私個人は、初心を忘れたくないスタンスにいる。
あのとき想像の先に聴こえていた音は、そのものは、
もし今それを同じように聴くことが出来れば、いかにも貧しく、学びによって完全に克服されたものにちがいないけど、
閉じてしまわないスタンスは、忘れたくない。
私がこっちとあっちの線引きをする基準は、レコメンかシンフォか、とかの「スタイル」じゃなくて、「スタンス」。
私はこのままこういう人なのかも、と思うと寒気がしもする。
深まってゆくということがない。瞬間瞬間の目醒ましいワクワクを至上に生きてて、学として集大成することを「ロックじゃない」と思ってる。
もう言い訳になるほどは若くないのだし。
「今の若い方は、東京事変のカヴァーでご存じかも知れませんね」
と書いた*1けど、これはギャグとして成立しない、現に私は「今の若い方」ではないのだった。
私は「ナイーヴ」を(「幻想」などと同様)否定的な意味で使う。
あと、世阿弥オリジナルの「初心忘るべからず」は、一般の使われ方とは意味がだいぶ違うらしいけど、ここでは立ち入らない。