いつも音楽について考えるヒントを下さる @fomalhaut 氏の御ツイートを、またリンクさせて頂きます。
音程感を伴わない音程の無断変化を再現出来る楽器の存在は風の音の変化を聴いていると必然に満ちていると感じる。
— Yasushi_SAKAI (@fomalhaut) 2018年4月6日
線描の絵画作品に触発されて、「線の絡み合い」の音楽を書きたいと念ずる。
でも、絵と音楽とでは事情が根本的に違う。
絵では、線と線の関係、どのくらいの間隔にするか、どういう角度の関係にするか、自由に決められる。
間隔をいくらでも詰めて、いくらでもたくさん並べて、密にすることが出来る。
音楽では、線=旋律どうしの音程を詰めると不協和になるし、特定の間隔つまり周波数が単純な整数比になる場合以外は不協和になる。音階的に階段状にではなく連続的に音程が変化する線どうしを同時に重ねると、たまたま周波数が整数比になる瞬間だけ協和し、それ以外は全部濁る。
この絵の「線の絡み合いの密度」と「詩情・諧調」とを、同時に音楽に移すことは出来ない、ということだ。
「線の絡み合いの密度」を音楽に移すとそれはトーン・クラスター、まさに「風の音」のようになる。
「詩情・諧調」のためには「音程感」が必要だ。それは絡まり方・ハモり方をものすごく制限する。
対位法の音楽が、如何に線の絡み合いとして密度を上げているように聴こえても、絵に較べれば如何に単純で、如何に情報量が小さいか。
むろん私は風の音が好きだし、絡まり方・ハモり方がそれに似た音楽が好きだけど。
また、「音程感」によりつつの絡まり・ハモりにおいては、別な性質の「複雑」「密度」が生じてはいるのだけど。