テンポ

私が拍子(変拍子)に積極的興味を持てないのは「連続的変化」があり得ないからだ。

と、網守将平とバクテリアコレクティヴの曲「Climb Downhill 1」のテンポの連続的変化を聴いて、ふと思った。

こんなテンポの扱い、初めて聴いた。

 

音楽における「連続性」というと、例えば曲の進行・展開について。例えば変奏曲のような「ある長さを持つ主題が、繰り返される度に形が変わってる」という「指折り数えられる」変わり方ではない「連続的な」変化、を考え得る。複数のトラックが重なってて、ひとつがフェイドインしてくる入れ替わりに別のひとつがフェイドアウトしてゆく、それが曲の進行である、みたいな。

 

拍子の変化はそうはいかない。「3/4 やって 7/8 やって 2/4 やって…」という「順繰り」しかあり得ない。「3/4 から 7/8 に連続的に変化する」とかあり得ない。

 

テンポは連続的変化があり得るし、分単位で測られるテンポを加速させて秒単位のオーダーに突入させると音高になる。

音高は、ポルタメントで連続的に変化させられるけど、協和音程を考えるなら階段状の音階にならざるを得ない。連続的に音程が変化する旋律どうしを重ねると、たまたま周波数が単純な整数比になる瞬間だけでしか協和しない。

音高における「協和/不協和音程」「和音」に倣って、テンポにおいても、複数のテンポを重ねて「協和/不協和テンポ程」「和テンポ」を考え得る。私はやらないけど。

 

普段の実践の現場では、曲のテンポ設定(BPM)を、私の場合3の倍数にしがち。120が基準だからだし、2の差は感じ分けられないので3が最小単位になってる。

エディット作業をしてると感覚がテンポに慣れてどんどん速くなって、いったん144まで上がって、でも作業してる時は感覚が鋭くなってる時だから落ち着いてみると自分の設定したテンポに自分がついて行けなくて、けっきょく132に落ち着く。

つまりテンポは、打込み作業に於いても、どこまでも身体に属するもので、したがってパーソナル*1なもので、そのレゾリューションを細かく保つことを心掛けてる。テンポについて行けなくなるとは具体的には、リズム=符割を解析できなくなって、グルーヴを失うこと。

まあ絶対的なテンポは厳密なものではなくて、作り込むのは「差異」=曲中での「変化」。

 

冒頭に貼った網守将平とバクテリアコレクティヴ「Climb Downhill 1」の、わたし的にショックだった点はつまるところ、テンポをテンポそのものとして即物的に扱ってる、という点なのだと思う。翻って私のテンポ設定は「楽想に相応しいテンポ」を決めることなのであって、これはロマン派だ。

*1:2023年01月25日追記

ここで「パーソナル」の語を使ってる理由を書きました。