「も」と言い過ぎる日本語

昔見かけた美容院の看板に「火曜日も営業」と書いてあった。

「火曜日に営業してる」というひとつの事実を伝えることが、結局ほぼ何の有益な情報も齎さない例*1

(むろん、「今まで火曜日が定休日でしたが、その火曜日も他の曜日同様営業することにしました」の含意なのだろうが)

 

ソフトクリームをカウンターで買う時、いきなり「コーンはワッフルでよろしいですか?」と訊かれる。

そう訊く前に、まず選択肢を示してもらいたい。

 

こういう例に遭遇する度、NHK のニュース原稿を思い出す。

 

どうやら、政治家誰々がこういう発言をした、という事実を伝えてはいるようなのだが、その意味づけがクリアじゃないし、記者自身のスタンス、その事実をどう評価して、情報の形にして伝えようとしてるのか、が見えない。事実を、フォーマット(「誰々が〇〇と述べました。その上で□□と述べ、△△という考えを示しました。これは××する狙いがあるものと見られます」的な)に落とし込んで体裁を整えることがニュース原稿を書くこと=情報の形にして伝えること、という料簡に見える。

「こういう状況下で、A の可能性、B の可能性、C の可能性ある中で他ではない A だった。ここがポイントだ」とクリアに見えるし腑に落ちる、真にジャーナリスティックと思えるのは、アル・ジャジーラであり、BBC だ、という印象。

 

あと、わざわざ具体性を削ぐ。

例えば、何かの専門的な技術が使われました、という時に、必ず「特殊な技術」という曖昧な語で言いくるめる。

ひとこと、〇〇という技術、と呼称を入れちゃいけないのか?

むろん呼称で呼んだからといってそれだけで「具体性」ではない。が、情報が特定の固有の技術を指してることが大事だし、呼称が判れば、より深く知りたい視聴者があとでググれる。

そういう例が散見されるというのではなく NHK の一貫したスタイルなので、代々受け継がれてる「伝統」なんだろう。

 

なにか、包み隠す意図でもあるのか?

記者自身が解ってないのか?

解ったことを解ってない人に伝えるのが下手なのか?

端折ることで意味を通じなくするのが NHK、という印象。

 

いや、NHK ニュースというか TV 全般見なくなって数年経つので、記憶が曖昧で具体的な批判が出来ないのだけど。

(冒頭、NHK ニュースそのものではなく喩え話から入ったのは、そのせいです。)

最近のことは知らない。知らなかったのだが、先日たまたまネットで見かけた2つの NHK ニュースで、相変らずわざわざ具体性を削いでた。

「民族共生象徴空間」と言えばいいのに、わざわざ「3年後に胆振白老町に開設される国の慰霊施設」と言う。

ニューファンドランド・アンド・ラブラドール州」と言えばいいのに、わざわざ「東部の一部の州」と言う。

 

NHK の、ドキュメンタリーについても、いろいろ言いたかったが面倒になった。

尺ありきで、その尺を埋めるのに汲々としてるという印象。

せっかく撮った映像はなるべく全部使いたい、的な。BBC のデイヴィド・アッテンバラが作る自然科学のドキュメンタリーが、すごい技術とすごい執念で録った映像を、わずか数秒のためにこれでもかと惜し気も無く詰め込んでくるのとの、圧倒的な力の差。

 

「撮る」ことは「見る」ことだ。「撮る」ことは「造形する」ことだ。

NHKドキュメンタリーの映像には「絵ぢから」がない。漫然と撮ってる。踏み込まない。余計なものが映り込んでる。

何を見、何を撮ってるのか、判然としない。

空間的にフレーミングが、時間的に編集が、甘い。

演出が、説得力のためにではなく、お茶濁しのために、施される。

 

 

ところで日本語は「も」と言い過ぎる。

基本、「も」は全く使わなくても困らない助詞だ。

「私は女だ」「あなたは女だ」と言えば、「も」と言わなくても「私のみならずあなたも女だ」を含意する。

そういう場合ですらそうなのに、「第一義的にこうである」をまず示すことなしにいきなり「も」という場合があって、困惑する。

清少納言の昔から、まず第一に何が白き灰がちになりてわろいのかを示すことなくいきなり「火桶の火『も』」と言っていたから、いまさら手の施しようがない。

*1:「火曜日も営業」から言えること:

①火曜日は営業する

②火曜日以外に営業する日が1日以上6日以下ある

③しかし②がどの曜日かは判らない。結局営業するかしないか判るのは火曜日だけ