…という状態に、12日から13日にかけて、なるのだろうか。
台風といえば。
台風の位置,「足摺岬の南南東」と、「方角」だけ言って「距離」を言わなかったら、大圏コース上のどこにあるのか判らないです。それで何か説明してるつもりですか? #NHK
— 新海智子 (@coccyx_T) September 3, 2018
「文系」へのイラつき https://t.co/jLZ84OuJTT
— 新海智子 (@coccyx_T) September 3, 2018
いや私自身、紛れなき文系なのだけど。
「プトレマイオスの時代には星座が48あった」
「そんな古い時代に既に48も星座が発見されていたんですね!」
どこの TV 局か忘れたけど、むかし本当にあった、理科の先生の解説へのアナウンサーの返し。
星座が「制定」されるもので「発見」されるものではない、ということは、星座は天文学(天文物理学とか天体力学とか)の対象ではないということ。
星座は、もともとは「暦」だし、天文学上の機能は、天体の天球上での位置を示すのに、いきなり赤緯赤経の値で厳密にいう前に、大まかに「〇〇座の方角」「〇〇座の範囲」と示すためのものだ。
数値の抽象に、具体を帯びさせるための。
地べたにも境界線はある。でもこれは地形によって必然的に決まってる。稜線や海峡は越えにくい線なので、行政の区分になるし、文化の境目になる。もし国境や県境を引き直しても結局現行の線に落ち着く。地べたの境界線は学問の拠り所だし、学問の対象だ。線をどこに引くか考えることがそのまま学問だ。
「生物地理区」も同様。
星座が天体の位置を言い示す地図として機能するために、星座と星座の境界線を画定せねばならない。それは厳密に共有されねばならないが、でもどこに引くかは全くの便宜であって、根拠は何も無い。それ自体は学問ではない。地べたの場合とは違う。
アフリカや中東の国境線の引かれ方は星座の境界線のそれに似てる。
星座に興味を持つことと、天文学に興味を持つこととは、全く別のことだ。①星座に興味を持つ人も、②天文学に興味を持つ人も、そこは弁えてる。でもその外に、③両者をごっちゃに見てる人がいて、局アナをやってたりする。
②は理系、①は文系。③は、罵り言葉としての「文系」。
あと、それとは別に。
天文ファンを3つに分類できる。①学問から入る者、②ロマンティシズムから入る者、③メカから入る者。
これは音楽ファンにもきれいに当てはまる。