写真なればこそ

何テイクかの中から1枚だけ選ぶのに苦労する、といったけど、じつはこれはちょっと間違ってて、ぎゃくに、その数枚のあいだの「差異」にこそ、私が撮りたい・見せたいものがあるのだ。
最初から、数枚並べて貼ることにすればいい、するしかない、のだ。

ヴィデオ撮影を試みたのは、次のような事情からだった。
ある水辺の風景が面白くて、写真に撮るのだけど、どのアングルから撮っても、肉眼での印象を再現しない。何故なのか?
肉眼では、ある「特定の」、水路の角度とか、光の入り具合とか、木の枝の被り具合とかを面白がってるんじゃなくて、視点が動いてそれらが刻々変化する、そのことで空間的「奥行き」を知る、「場」が構成される、そこを面白がってる。
で、ヴィデオ、と。

写真だと、アングルや焦点距離*1を微妙に変えた数点を並べることで「場」を作れる。それは絶対にヴィデオのようにはゆかないけど、写真だからこその表現がある筈。

写真はヴィデオよりも、ポイント(空間的、時間的)への集中力がある。ヴィデオの時間は漫然と流れる。ヴィデオで見せられると流れて見落とすものに、写真は意識を向けさせる。

そういえば、NHK のドキュメンタリーが視るに耐えなかったのは、内容よりも、とにかく映像の「絵ぢからの無さ」のせいだった。
空間的に、余計なものが映り込んで、「何を撮ろうとしてるのか」の絞り込みが足りない。現場に踏み込み対象に迫る積極性が感じられない。
時間的に、編集が甘い。

もう10年以上前の記憶だけど、TBS『世界遺産』の絵ぢからは凄かった。何が違うんだろう? 絵は「撮るもの」ではなく「作るもの」ということだろうか? 「加工する」という意味ではなくて、構図を「造形」する際の「美意識」、何を「撮る」かとは何を「撮らない、映り込ませない」かだ、みたいな。
「如実」であることは、そのまま(=漫然と)「撮る」ことによってではなく、意識的積極的に「造形する」ことによって達成される、みたいな。
ヴィデオによって写真の集中力を凌いでた。「写真的」だった、と言ってしまったらヴィデオの名誉にならないけど。

あとスマホカメラで驚いたし困ったのは、連写だと、ピンチ・インの設定が無効になる。×1.0 でしか連写できない。やり方があるのかな?

*1:一眼レフの発想。