(2015年10月16日、記)
前回の
で、音の重ね方の「もっと『自然』で『自由』なもの」に触れて、ここをいちばん掘り下げるはずが、素通りしてしまった。
環境の中で、鳥は、それぞれ好き勝手に囀ってる。
固有の節回しをやるだけで、他の誰か、周囲の環境と、ハモろうとか、テンポを揃えようとかはしてない。
でも環境音全体として調和していて、その中に身を置いて耳を澄ますと、心地良い。
トータルの環境音が心地良くあるために、いかなる部分の自律も犠牲にされてない。
音楽が「自然」にモデルを求める。
個別の「声部」とトータルの「和声」の関係を考える時にも。
「曲」というものをどうイメージするか。
「曲」のスタイルって、何に似てる?
一篇の物語?
一幅の絵?
私の曲に知り合いが感想を寄せて曰く、
「短い」「起承転結、クライマックスが無い」
彼女にとって「曲」はセックスの比喩なんだ、と思った。
先に行かないで、ということなんだろう。
そしてその比喩は正しい。「曲」には確かにそういう「スタイルに沿って気持ちを昂揚させる」エロティックな機能がある。
私の「曲」のイメージはもっとスタティクで、「顕微鏡の視野で切り取った鉱物」に似てる。
自然のさまざまな要素が係わり合って見せる造形は無限に多様だ。
現実の空間の中での、生ものとしての音と音との、無限に多様な、重なり方、連なり方、干渉のしあい方、その中からたまたま切り取ってきた1通りの「サンプル」としての「曲」。
作曲とは、形の「整え方」ではなく、サンプルの「切り取り方」。
石英と、斜長石と、黒雲母が、たまたま隣り合って、造形する。
鉱物を生む地球のダイナミズムを閉じ込めた、ひとかけらのスタティク。
あと私はリフをやらない。
1度言って判ることは2度言わない。
その点でも前述の彼女のイメージには応じられない。
ちなみに私はサンプラーは持ってません。そういう話ではないのです。
「作曲」における「心構え」の話です。
ところで私は「楽曲」の語を使わない。
クラシックの楽典に出て来ないので馴染みがない。
もしかしたら著作権管理の文脈で使われ始めた語彙なのかな?