(2016年8月30日、記)
ものを考えない私にも、真摯な中2紀があった。
煎じ詰めれば、当時の私の悩みは、「『自我』は生き辛い」で、つまりは「エコロジー」で、ありがちな思潮、ありがちな悩み、だと思う。
NHK『こころの時代』は今もあるようだが、当時、この番組タイトルのイミフを思った。
おそらく、さきだって「もの」「お金」一辺倒の時代があっての、「こころ」の価値基準の再発見、という意味のネーミングなんだろう。
私なら、『ヒトがいのちを生きるとは』にするのに、と思った
私の悩みは、ヒトとして「自我」を生きることが、「いのち」を生きることから乖離してる、という、居心地の悪さだった。
もちろん、この「居心地の悪さ」自体がどこまでもヒトの料簡だ。
ガイアは生命体。ヒトという種は生命体。個体は生命体。器官・組織・細胞は生命体。
種レヴェルでの生命活動が、下のレヴェル=個体レヴェルでのアポトーシスを前提に成り立つのは、「あたりまえ」だ。
ところがヒトという種は、個体レヴェルのいのち維持の動機の仕組みとして「自我」を具えてる。
私という個体にとって「自我」は、あまりに大きく、切実だ。
いのちの掟の「あたりまえ」は、ヒト個体とって「理不尽」だ。
ヒトの生き方=文化を、自然と対立する、いのち本来でないものと考えるか、これも自然のいのちの一様式と考えるか。
ガン細胞は、個体トータルとしてのオーガニゼイションや、その中での各器官、各組織の機能に係わりなく、つまり「場」の情報に随わず、際限なく自己増殖する細胞、と定義できる。
とすれば、アナロジーとして、ヒトはガイアの中のガン細胞、ということになる。
文化の居心地の悪さから逃れる試みを文化を以てする悪循環をヒトの歴史と呼ぶのであって、ヒトは時代が下れば下るほど堕落する。
ヒト個体は自我を以ていのちを維持する。
ヒトという種に属する以上、この維持にも責任を果たす。
でもこれらの維持は、さらに上のレヴェルのいのち「ガイア」の維持の都合に存廃を一任される前提のものだ。
私にとっては自我が価値の最上位にあるけど、これを自己目的化することは、いのちの掟が許さない。
自我は死なねばならない。
自我同様に他我をも尊重する。
地球上に生まれたすべての自我他我を等しく尊重する。
人間性は地球のキャパを超える。
有限の資源をめぐる戦争、貧困。
ヒトビトが「貪る」ことをやめれば解決するのか?
地球の人口を500万人に減らせば解決するのか?
人間性がガイアを傷つけるのだし、人間性が人間を滅ぼすのだ。
(いやヒト自らが自らを評価しようなどそれこそが思い上がりだ。
ヒトはヒトの勝手でやればいいのだ。
そのうえで裁きはガイアに任せればいい。)
ひとつのおおきないのち、それをシェアするこっちのでっぱりが私で、そっちのでっぱりがあなた。
「私さえよければ」が成り立たない世界モデル。
このモデルを引き受ける公平さを自我は持ち得るだろうか?
こんな一連を、恥を忍んで、書くのは、アイヌに触れて書く前提として、中2当時の(今もあんまり刷新されてない)私の世界観を押さえておく必要があったから。