1980年

自然の理はヒトにとっては残酷

 

生物として、個体維持や種の保存のために備わった働きが、ヒトを苛みもする。

ヒトも物理法則の中にいるから、人混みの中で大切な人とはぐれもする。自動車や振り下ろされる玄能や眼下に迫り来る地面に当たれば潰れて死にもする。

私の中で、ヒトの受苦を、生物学やさらには物理学の理に照らせば当然だろ、と片付けてしまいたい欲求と、ヒトなればこその喜怒哀楽の機微に最大の価値を置きたい欲求と、両方がある。

 

理の流れと渦巻きの中、たまたま諸条件が拮抗する局所に瞬間に現れるいのち

 

「冷たい音楽」の例を探す。

英語判らないから歌詞ではなく曲の印象です。

理自身は冷たくはあっても、冷厳でも冷酷でもない。厳や酷は受け取るヒトの側に生じている。

出だしは理の冷たさを思わせるけど、徐々に、それと、「悲愴」と、込み込みの表現になる。

悲愴は、受け取るヒトの側に生じるものだから、温かい。共有できる。

この曲が発表された時既にイアン・カーティスは亡くなってたとか、そういう逸話抜きに、今は論じてます。

 

死を希んでいたのは、生の温かさの側にいる間だけだった。他との繋がりの中にいて、私の死を目撃し、何らかの反応を示してくれる者がいて。

寄る辺なく呆然とする時の冷たさ、目の当たりにする空しさ、底の抜けた怖さは、むしろこっちに近い:

John Foxx はこれを死の音楽と思って作ってはいないと思います。だから本当に冷たい。

 

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