アイヌ

(2016年8月30日、記)

 

私がアイヌに触れつつ何かを書くことは、必定、アイヌについて書くことではなく、私自身について書くことです。

和人である私が、アイヌにどうかかわろうとするのか、について

アイヌに押し付ける、私の幻想について。

 

問題が大きすぎて書けずにいました。

私の個人的な世界観を披露することの無責任・軽薄と、現存し、センシティヴな問題を抱える民族に言及することの重さとの、不釣合い。

 

さいきん、新井かおり先生のこの論文を拝読して、書き始めるきっかけを与えられました。

「戦後のナラティブ・ターンから眺めるアイヌの諸運動と和人によるアイヌ研究の相克」

http://ci.nii.ac.jp/naid/120005426972

 

要するにいままで私が思ってきたのは、「アイヌの世界観と知恵に学ぶことが出来れば、ヒトの未来も絶望するばかりではないかも知れない」ということでした。

土地に線引きをしない。財産を私有しない。自然の摂理に随い、ヒトの分を弁える。

前回の記事のような世界観を持って、「ヒト」と「いのち」との齟齬と、未来のどん詰まり感を悩んでた時に、アイヌの世界観に処方箋を得た気がした、ということです。

 

 で、私が私の中に醸成したアイヌについてのイメージが、前掲の論文中「5.和人による自然との共生ナラティブ」の、梅原猛の「原日本人論」以来の思潮に乗ったものであるらしいと判ったのでした。

 

自然との「共存」の原理と、魂の「循環」の原理、そのために森が保存されている。農耕に始まる環境破壊から自らを救い出すために人類は「個人ではなく種を中心にした考え方、つまり永遠の生と死の循環という思想を取りもどさなければならない」。

 

ただ、私の場合は、アイヌと和人は同根、という視点は無くて、私自身はなり得ない、憧れの対象なのですが、どこまでもこちらの都合なのは変わりないです。

 

貶めるにせよ祀り上げるにせよ、勝手な幻想に基づいてやられては、同様に迷惑です。

理解者ぶられ、すり寄られるほうが、より扱いに困るでしょう。

「自然との共生」ヴィジョンでポゼッションしたいという動機に発してると、そのために都合のよい要素だけをくすね、アイヌ伝統文化を歪みなく理解する態度になり得ない。気持ちよくさえなれれば、他で代用可能なんだろ。よそでやれ。都合よくアイヌの名前を出すな。アイヌをダシに使うな。

アイヌを消費するな。

 

当然ながら、現在アイヌの方々にはいろんなスタンスの方がいらっしゃいます。

伝統文化を継承するにも、さまざまなやり方・考え方があり得ます。

もし私が、特定のイメージを以て「これが最もアイヌらしいアイヌだ」と思ったとしたら、そのことによって、そのイメージにそぐわないスタンスの方を排除・批判することになります。

あまりアイヌらしくないアイヌ、なんて、和人の私が判定してよい筈がありません。

 

なによりも、同化政策によって、アイヌの伝統文化の継承を難しくしたのは和人です。

和人の私が「アイヌの方には伝統文化を大切にして頂きたい」などと、どの口で言うのか。

 

私が、日本の文化を西洋人が勝手な幻想で以てつまみ食いするのを、面白がって見ていられるのは、そうされたからと言って日本文化が滅びることはないからです。

小林よしのり以降、アイヌ民族否定論が実際にあり、それを真に受け、またはデマと知りつつヘイトの口実にする者が、仮に日本の人口の0.1%であっても、アイヌの人口に対しては大きな脅威です。

そういうプレッシャーの下で、自らの文化に対する外からのアプローチが、どういう認識に基づいてるか、敏感にならざるを得ないと思います。

 

勝手ばかり書きました。

音楽についても触れるつもりでしたが、次の機会にします。