(アメブロのブログネタ「脱出ゲームやってみたい?」に回答して)
脱出するためには閉じ込められねばならない。
一旦閉じ込められることがゲームたり得るのは、最終的に脱出できると保証されてるからだ。
ゲーム主催者との信頼関係が前提にある。でも「信頼」は「見込み」だ。
閉所恐怖とは、「一旦」の閉じ込めの「永遠化」だろうか?
リアルではないコンピュータゲームの「脱出ゲーム」でも、閉所恐怖はあり得るのだろうか?
むかし「なうネタ」で
[どうして不倫すると思う?]
があって、回答した。
「成人、成獣、成虫は、遺伝子をできるだけ広範囲に運搬するようにプログラムされ、機能・形状を設計されたものだから。つまりそれが自然だから。倫理とは別の問題として。」
最近セミが少なくなった、という感じを持ってるし、事実そうなんだろう。
ただ、経年変化=「時間」で見てという以上に、私のいるのが住宅地の真ん中で、私自身がこのポイントからほぼ動かなくなったから、という「空間」の事情がある。
セミの時期が来て声を聞くようになる、のではなく、セミが、本来の行動範囲ではないこのエリア、私の聴力の及ぶ範囲まで飛んできてくれて、これが私にとっての「初めてのセミ」となる。
セミのライフサイクルがここで完結することはない。セミが卵を産みつける樹も、幼虫が潜り込む地面も少ない。出会いの少ないこのエリアに飛んでくるのは不利である。でも成虫は「有利だから」そこに飛んでゆくばかりではない。
いのちは、生きやすい場所を争奪し、そこで繁栄する。反面、過酷な環境に敢えて進出しもする。ぎりぎりの条件でも命を繋ぐ可能性がある所には「必ず」進出するのがいのちである。
このパイオニアとしての役割を、セミの場合、成虫が担っている。
生殖に限らず、できるだけ広範囲に移動してできるだけ多くの人と関わることが、ヒトの、いのちとしての本来の仕事である。
だから移動の自由を奪うことが刑罰たり得る。業務に差し障るし、禁固を身体的心理的に苦痛と感じるようにヒトの機能は設計されている。
閉じ込められているあいだ、ヒトは「ここは本来の居場所ではない」と感じる。開かれた世界に「戻りたい」と思う。
Genesis の歌詞に
We've got to get in to get out.
というのがある。